Archive for March 2006

08 March

#17.中央アメリカ観賞、2題

先月、青山のワタリウム美術館で開催されていた『フェデリコ・エレーロ展』へ行ってきました。コスタリカ出身のインスタレーション作家の展覧会ですが、楽しいの一言でした。インスタレーションというと、彫刻でもない、オブジェでもないというように、訳のわからないモノを並べたり、取り付けたりしたものが多かったのですが、ただ奇を衒うだけのものではありませんでした。絵を描いたら少しハミ出して、壁にまで描いてしまったという作品で、自由で楽しく描いたというものでした。最も強かった印象は色が、明るくて、鮮明で、しかも軽いのです。だから、少しも強すぎるところがないので、見ていて疲れません。抽象的に描かれた題材は、ひとの顔のようなバスや建物なのですが、どこかアステカやマヤの巨人面を思い起こさせます。楽しくて飽きずに観ていたら、不思議な画面から湧き出る嫌味のないエネルギーに気持ち良くなれましたで、いつになくアンケートにも答えました。「どこに絵をかいてみたいですか」という質問に、「地球」と答えました。大それたことではなく、子供ころ道路に蝋石で絵を描いたことが甦ってきただけのことです。
先々月、銀座のシネ・スイッチで『イノセント・ヴォイス 12歳の戦場』というメキシコ映画を観ました。エルサルバドルでは、男の子は12歳になると兵士にされてしまう可哀想な話です。内戦状態が続くエルサルバドルでは、政府軍が12歳の男の子狩りに村へやってきます。トラックに乗せられて否応なしに軍隊に入れられ、反政府軍と戦わされます。事前に情報が洩れると男の子は隠れて強制連行を逃れますが、結局、反政府軍に入るしかありません。こうして友達同士が銃火を交え合う悪循環が続くわけです。重暗さ一辺倒の作品なのですが、そこはラテンアメリカ、ところどころでの音楽やダンスは、ほっとする明るさがありました。逆に、この明るさが悪循環を容認させてしまうのかも知れません。柄にもなく社会正義プンプンの映画を観てしまったわけで、日頃のノーテンキな毎日を恥じるばかりでした。ところで、主人公は12歳の少年ですが、そのお母さん役を演じたレオノア・ヴァレラはチリ出身の33歳、4か国語を自由に話すそうです。演技もさることながら、いや〜いい女、こんな汚れたおっかさん役なんてもったいないですな。不謹慎にも終りの方は、レオノア・ヴァレラばかり観ていました。
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06 March

#15.最初の関心

絵を見ることが好きなのだが、絵画への関心の最初は、ご多分に漏れず印象派のあたりから始まった。モネやルノアールなどを見ていて、スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の点描に眼が行ったとき、これならオレでも思ってしまった。スーラが考えに考え抜いた点描であるのに、座標軸上に機械的に色を置いていく単純な作業に思えて、誰でもできると感じてしまったのだ。実際、やってみると難しいのなんの、普通に書いた方が簡単だった。そればかりか、スーラの作品を調べると輪郭線のないデッサンなど、単に作業で済むようなことはひとつもなかった。
20世紀も終りの1998年、俗にシカゴ美術館と呼ばれているアート・インステテュート・オブ・シカゴに行く機会を得た。その205号室に『グランド・ジャット島の日曜日の午後』があるのだ。本物は現地へ行かなくては見ることはできないが、この本物は普通の本物ではなく門外不出なので、現地へ来なければ絶対に見ることはできない本物なのだ。その思いで入館して、205号室に息を切らすように直行し、対面した。正面に据えられたこの作品は、長年の願いが叶った至福感からか、神々しくさえ感じられられた。
しばらく見入っていたが、ふと周りに眼をやってビックリした。左の壁にはピカソの『老いたギター弾き』、青の時代の傑作だ。右の壁にはゴッホの『アルルの寝室』とロートレックの『ムーラン・ルージュにて』、そして、死角になってしまう手前の壁にはモディリアニの『リップシッツ夫妻の肖像』と、これだけで何十万人も集められる展覧会が開けるだろうし、オークションに掛かったらいくらの値がつくのだろうと、下世話な妄想を巡らせてしまった。
再び、中央の壁に眼を戻すと、たて2m、よこ3mもあろうこの作品は、信じられないほどの精緻さの点描で埋め尽くされている。緻密な構想による構図決め、夥しい習作を重ねての大作は、ひとつの点たりとも疎かにしない集中力はスーラの生命力を搾り取った。スーラはこの作品の完成の5年後、力尽きて他界するが、享年31歳であった。夭逝は何をもってしても不遇であるが、早来ごときに関心を持たれること自体、不遇の上塗りだ。


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