Archive for June 2009

22 June

#579.日本の豊な感性

卯の花の  匂う垣根に
時鳥  早も来鳴きて
忍音もらす  夏は来ぬ

という歌があるが、佐々木信綱の作詞による『夏は来ぬ』で、皆さんもご存じだろう。夏の風物詩を読みこんだ歌で、小さいころから口ずさんできた。今、この歌の歌詞を噛みしめてみると、全く意味がわからないまま歌っていたことに気づいた。

まず、卯の花だ。生まれてこのかた、ほとんど東京の下町で暮らしてきたこともあり、木々や鳥などの自然物には本物に触れる機会が少なかったので、卯の花を見たのはつい数年前のことだった。それまで卯の花は名前のイメージから豆腐のおからのような形をしているものと思いこみ、見てはいるのだが認識はできていなかった。ある日のテレビで卯の花が映し出され、そこで初めて卯の花を知ることになった。そこで初めて、近所で卯の花を発見することができたのだ。

時鳥はホトトギスと読む。ホトトギスは時鳥の他に、不如帰、杜鵑、子規など多くの漢字表記や異名が多い。歌詞では耳で覚えたこともあり、音楽の教科書の歌詞は音符の下にひらがなで書かれていたので、難しい字を読む必要はなかった。だが、これも姿を見たこともなければ鳴き声を聞いたこともない。俳句や百人一首やなどでホトトギスはよく登場するし、明治の文豪の文章にも季節の表現として実によく現われる。これなのにホトトギス知らずでは本当にマズいのだ。

最後に夏は来ぬの「来ぬ」だ。夏が来ないものと思っていたら、来たということらしい。「ぬ」は文語で、完了の助動詞とのことらしい。これも音楽の先生がわざわざ説明してくれたのだが、そのときは「へえ〜」で終わってしまったと思う。

とにかくこんな具合で、「早も来鳴きて」や「忍び音」なんかも詳しい意味は当然わからなかったはずだ。でも、早も来鳴きてはわかるかも知れないが、忍び音は何だろう。ホトトギスの鳴き方をいうのだという。すると、どうしても鳴き声も聞いておかなくてはいけないようだ。実は同じように卯の花も姿や形が重要なのではなく、ここでは匂いなのだ。残念ながら、これは今もわからない。

夏を詠んだ歌詞だが、見た目だけのことではなく匂いと鳴き声の詩だったのだ。夏の訪れを花が咲き、鳥が飛ぶことでもわかるが、匂いや鳴き声という視覚からさらに踏み込んだ感性を働かせるところがこの歌詞の醍醐味だ。これと同じように春の歌で『朧月夜』があるが、優れた視覚的表現に加えて、「匂い淡し」、「カワズの鳴くね」という嗅覚や聴覚の表現も忘れていない。

テレビやディプレイなどの映像文化に頼りきりになると、五感への広がりが鈍くなるような気がする。とかく、見てわかればそれで安心してしまうが、この機会に、匂いは、音は、味は、感触はということにも意識を払ってみようと思う。


23:45:00 | datesui | No comments |

01 June

#566.リズムとテンポ

この前、優れた書き出しとして挙げた5つの作品は共通して心地よいリズム感がある。中でも平家物語は特にリズミカルな口調が優れていたので特記しておいたが、他の作品も卓越したリズム感があることは明白だ。漢文を含め、古典には何とも言えない気持ちの良いリズムがあり、声に出せばよりリズム感やテンポの素晴らしさが体感できるというものだ。その最たるものは『太平記』だろう。

落花の雪に踏み迷う、交野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮、・・
という名調子で始まり最後までこの調子だ。ところが名調子は良いのだが、肝心の中味がないのが困ったところで、この前のところでは候補として挙げにくくボツになった。

今の世ならばフーテンの寅さんの名セリフが太平記に通ずるものと考えたい。「結構毛だらけ、猫灰だらけ」、「蟻が鯛なら芋虫ャ鯨」、「大したもんだよ田螺の小便、見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」というものだが、リズム感やテンポの良さだけを狙うようになると、「さらさら流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ちしょんべん」とまあ、意味も不明なら品もなくなってしまう。

リズム感を高めるために形式が整えられ、これが決まったリズムとしての約束事になる。こうして、まず和歌が、そして連歌、俳句が順次発展的につくられたのだろう。漢文の世界でも唐代に現れた五言や七言の絶句や律詩という新体詩もやはり同じようなリズムを楽しむ約束事として発達定式化したものだろう。


16:59:32 | datesui | No comments |