10 July

#104.ウィーン?

ウィーンの最後の晩は、旅の最後の晩にもなった。この晩は、シェーンブルン宮殿のオランジュリー館でコンサートがある。オランジュリー館というのは、元は温室でオレンジでも栽培していたのだろうか。パリには、同じオランジュリーを冠した美術館があって、モネの睡蓮の大部屋が有名だ。憧れのオレンジを自家栽培した温室の再利用が、ウィーンではコンサートホールになり、パリでは美術館になった。お国柄というか、各々のアイデンティティーが出ていておもしろい。

暮れなずむシェーブルン宮殿に向かうのは、ちょっとした良い気分になった。見学用の通用門とは違う雰囲気の入口から中に入った。やはりコンサート、盛装の方も散見された。5ユーロのプログラムを買ってみると、第1部がW.A.モーツアルトで、第2部がシュトラウス一家となっていて、それぞれ8〜10曲の構成だった。いずれも短く編曲して変化のある構成してあり、とても聴きやすかった。

編成は16名だが、第1ヴァイオリン4、第2ヴァイオリン2、ビオラ1、チェロ1、コントラバス1、フルート1、オーボエ1、クラリネット1、トランペット1、ホルン1、パーカション1、となっていて、コンダクターはヨハン・シュトラウスよろしくヴァイオリンを弾きながらの指揮だ。
金管の低音はホルンが全てを引き受けていて、トロンボーンやチューバの音まで賄っていたようだ。サッカーでいえば、ボランチの選手がボランチは勿論、センターバックとサイドバックまで一人でこなしたようなものだ。
また、パーカションも忙しかった。ティンパニー、バスドラムは言うに及ばす、ヨハン・シュトラウスのポルカは妙な擬音が入るので本当に大忙しだった。挙句の果てというか、アンコールの定番『ラデツキー行進曲』では、さっとスネアドラムを引き出して、真っ先にスティックを打ち始めたのには、忙しいのは慣れっこという感じだった。
普段は主役になれないホルンとパーカションのガンバリには特別な拍手をおくりたかった。

途中、『フィガロの結婚』の曲ではシンガー、ヨハン・シュトラウスのワルツにはダンサーが加わり、飽きのこない演出をしていた。ちょっと歌が入る、少しだけバレーが入るというとき、日本との層の厚さの差を感じてしまう。チョイの出演でも、「こんなにやるのか」という印象だった。

オランジュリー館。正門の左手に広がっている。


入口は普通の建物に入る感じだ。小さ目のコンサートホールは聴きやすそう。


休憩時に外へ出てみた。午前中歩いた庭はすっかり暗闇で、そこから見たオランジュリー館だ。


コンサートが終わったので写真を撮った。演奏の最中でも立ち上がってフラッシュを焚いて写真を撮っていた中国人と思わしき人物がいたので、民度の高さを示すべく日本人として自粛した。



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03 July

#98.ウィーン?

ウィーンの中心街ケルントナー通りを歩く。さすがに、オシャレな感じがいっぱいに漂ってくる。道行く人も垢抜けた人が多く、若い女性もかわいい感じの人が見かけられる。ホーエンツォレルン家の無骨なドイツとは違う、腐っても鯛、ハプスブルクのオーストリアだ。


ケルントナー通りの賑わい。左下の女の子、この旅一番の被写体に巡り会う。この写真で、この旅もどうにかサマになった。
 


そのまま歩いて、シュテファン寺院の前に出た。モーツアルトの葬式が執り行われた教会だ。この界隈も人出で賑わっていた。でも、実に素朴なもので楽しんでいるようだ。楽しみの消費にかけては、日本は最先端で、次から次へと新しい楽しみが現われ、まさに楽しみの消費大国だ。


シュテファン寺院。ドイツゴジックの傑作。ドイツ、オーストリア、チェコなどのドイツ語圏のゴジックは単塔式が多いとのこと。
 

この界隈も人出がく、洗練された人たちも多い。大道芸のような余興があるのだが、何が楽しいのだろうと訝ってしまう。
 



トラム、路面電車ことだが、早速利用してブルク劇場へ出かけた。観たい演目があったのではない。ただ、どうしてもブルク劇場そのものを見ておきたかっただけだ。『魔笛』の初演など、語り継がれる逸話にほ事欠かない劇場だ。どんな内容だが知らないが、『ブルク劇場』という名画とされている映画まであるそうだ。

トラムは自分でドアを開けて乗り、自分でドアを開けて降りるそうだ。乗るときは、うまい具合に他に乗る人がいて、自分でドアを開けないで乗れてしまった。ブルク劇場への停留所というか駅の名前も侭ならぬ状態だったのでキョロキョロしどうしで乗っていたが、近づいてくるうちにドアの開け方が気になった。ちょうど降りる人がいたので、眼を皿のようにして開け方を確かめた。よし、わかったとばかり、ブルク劇場のそばに来たので勇んでドアを開けて降りた。うまくいった、満足だ。と、思った瞬間、大変なことを忘れていた。ドアの開け閉めのことで頭が一杯で、料金を払うのを忘れてしまったのだ。

ブルク劇場。冥土の土産になるか。振り向くと市庁舎だ。
 


また、トラムで国立オペラ座まで戻った。今度は、料金もちゃんと1.5ユーロ払った。乗る前に買っておくと、1ユーロになるのだが、ここで1ユーロで乗ったらお天道様になんと言われるか。次のお目当ては、ホテル・ザッハーのカフェ・ルームだ。元祖ザッハートルテをいただくためだ。
ホテル・ザッハーでは混んでいたらどうしよう、などと思っていたが、全くの杞憂で、雰囲気のある席に案内してくれた。念願のザッハートルテとアインシュペンナーが目の前に現われた。このときを何年待ったのだろうか。長生きはするものだ。
ホテル・ザッハーから出ると、壁にアントニオ・ヴィヴァルディの表示があった。晩年の消息がよく知られていないヴィヴァルディだが、確かウィーンで没したと聞いたことがある。表示を見ると、ドイツ語なので不安があるが、亡くなるときまでこの界隈に住んでいたらしい。


ザッハートルテとアインシュペンナー。ただ、美味。アントニオ・ヴィヴァルディがホテル・ザッハーに居たそうだ。享年まで居たらしい。
 




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26 June

#93.ウィーン?

自由行動は時間がかかる。それなのに最初のプラターの観覧車は地下鉄に乗っての遠出だ。早速、時間が気になりだした。次は美術館に行こうと思っているのだが、たくさんは回れない。ウィーンには世界有数の美術館がゴロゴロしているのにもったいない限りだ。そこで美術史美術館は当確としても、あと1か所ぐらいしか回る時間がない。ウィーン分離派の拠点セセションにするか、クリムトのコレクションの素晴らしいベルヴェデーレ宮か、それとも自然史博物館やシシィ・ミュージアムにも食指が動くが、セセションにするしかあるまい。セセションの目玉であるクリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』は壁画なので、東京ではまず見ることはできないだろうから。

そこで、地下鉄のプラータ・シュルテン駅から戻るわけだが、うまい具合にセセションの最寄駅のカールシュプラッツ駅までは乗り換えなしの一本だ。地下鉄に乗って一息ついていると、4つ目のカールシュプラッツにはすぐ着いてしまった。表に出て、さてセセションは、と見渡すと遠くに少しだけ見えた。こうなると、もう一目散に向かってしまい、大変な見落としをしてしまった。このカールシュプラッツ駅は歴史的名建築で、ドイツ語圏ではユーゲンシュティールと呼ばれたアールヌーボー傑作なのだ。そんなことも忘れてセセションについた。この日は天気が良く、ウィーンと言えども7月はさすがに暑い。白さがまぶしい建物の上部に金色のドーム状の大きな装飾がある。このため「黄金のキャベツ」と呼ばれて親しまれているそうだ。中に入ると『ベートーヴェン・フリーズ』は地下だった。

グスタフ・クリムト、エゴン・シーレなどウィーン美術界の急進派は、新しい芸術活動の原点をドイツ語圏の魂ベートーヴェンに求めた。クリムトはこの分離派会館セセションに、その象徴として第九をモチーフに人生の軋轢と幸福への歓喜を描いた大作『ベートーヴェン・フリーズ』を制作したわけだ。1902年の『ベートーヴェン・フリーズ』の除幕式には、当然のようにウィーン・フィルによる第九が演奏されたそうだ。で、指揮は?・・、なんとグスタフ・マーラーという豪華版だ。

地下展示室の壁3面にわたる『ベートーヴェン・フリーズ』を心行くまで観た。第九が聞こえてきそうだ。タクトを振っているマーラーの顔も浮かんできたが、どうも少し違う。そうか、ビスコンティの映画『ベニスに死す』のダーク・ボガード扮するグスタフ・アシェンバッハの顔だったのだ。


黄金のキャベツと呼ばれるセセション、アールヌーボーのオルブリヒの設計だ。正面の左側の壁には、クリムトを思わせる線が。




さあ、次は美術史美術館だ。少し距離はあるが、歩くのが一番早そうだ。ゆっくり歩けばそれなりの街並みだが、早く早くと歩いているのでみんな殺風景に見えてしまう。やっと目指す美術史美術館が見えてきた。手前にレオポルド美術館やミュージアム・クォーターなどがあるのだが、もう全く目に入らない。

美術史美術館は、KHM(カーハーエム;Kunst Historisches Museum)という略称が使われているようだが、それにしてもイカツイ名前だ。直立不動で見ないと叱られそうだ。お目当てが何品かあったのだが、それをあさっり忘れさせるほどの充実だ。美術の本に出てきた作品が次々と登場し、これもここだったのか、の連続だった。

最上階が絵画の展示室だった。そうだろう、彫刻などの重いものは最上階に上げることはしまい。39からなる展示室はハプスブルクのコレクションは逸品揃いで、どれ一つとして増量剤的なものはなかった。
最大のお気に入りはクラナッハだが、予習をしてきた『ホロフェルネの首を持つユーディット』に巡り会えただけではなく、なんと30点からの重厚なコレクションが見放題になっていたのだ。心配事は時間だけという至福な気分を味わった。
もう一つの気に止めてきたのはブリューゲルのコレクションだ。教科書にもあった『農民の婚宴』や想像や妄想がいくらでも浮かんでくる『バベルの塔』も素晴らしいが、一番のお気に入りは『雪中の狩人』だ。猟犬を連れた狩人の一行が帰ってくるが、獲物は少ない。だが、暮し向きの厳しさの中にも氷上で遊ぶ人がいて、大きく解放された景色の中に自然に収まっている姿に、気持ちが逆に安まる作品だ。

ラファエロの『草原の聖母』やルーベンスの『毛皮の女』などは想定の範囲で観ることができたが、予習不足のため、コレッジオの『ユピテルとイオ』、パルミジャニーノの『凸面鏡の自画像』、ティントレットの『水浴するスザンナ』には意表をつかれ、とても鑑賞とまではいかなかった。


KHM、カーハーエムの全景。相対して位置するのが自然史博物館。こちらにも食指が動いたが諦めるしかなかった。それにしても見事な夏の雲、季語になりそうだ。



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19 June

#88.ウィーン?

シェーンブルン宮殿を後にして、ウィーンの市内観光になる。まず到着は市立公園。あの有名な黄金のヨハン・シュトラウス像がある公園だ。早速、ヨハン・シュトラウス像の前でひとしきり写真を撮って、園内の自由行動になった。1862年に開園されたそうだが、ヨハン・シュトラウス像は1921年の制作だそうだ。1935年から黒く塗られていたが、1991年もとの金色に戻ったそうだ。日本人が大挙して押しかけたので、地元の観光業者組合が強引に金色にしたのかと思ったが、余計な心配だった。
園内は多くの樹木、草花に溢れ、気持ちがよかったが、中でも花時計は有名なものかどうかは不明だが、とても綺麗だった。季節もちょうど良かったに違いない。
園内の見どころとしてのもうひとつは音楽家の記念像だろう。予習不足もあり、あまりにも多くて見落としばかりだった。逆に、「あっ、ブルックナー」とか、「えーと、誰だったかな。いや、音楽家ではなかったかな?」と、まあ、しょうもない見物を続けてしまった。明るい日差しだが重さがなく、日本では味わったことのない透明感のある乾いた感じの暑さだった。

またバスに乗り込んで、とりあえずバスからのできる限りの見物をするらしい。さすがJTB、これが日本人の海外旅行だ。「あっ、樂友協会」、「あれは、オペラ座か」、「えっ、オペック、あの石油の。あんなちいちゃいの。」などと言っている間にバスはリンク・シュトラセを1周してしまった。王宮もブルク劇場も見ることは見てしまった。国立オペラ座のそばで降りて、昼食のレストランに向かう。この日は日曜日でどこも休みだ。一行の入ったレストランは有名なビヤホールで、本来ならビールを飲み明かすところなのだろう。

食事が済んで、ケルトナー通りをシュテファン寺院の前の広場まで歩いた。ウィーンの中心部だ。ケルトナー通りやシュテファン寺院前は、プロシアのドイツとは一線画した、垢抜けた感じがした。道を歩く女性も心なしか腹の出たドスコイ・タイプではなく、シシィタイプとでも言おうか華奢な方が多かった。

ここで、解散になり自由行動になったが、行きたいところだらけだ。まずは、メトロで郊外のプラターへ『第三の男』の観覧車を見にいく。若干難渋したが、どうやら切符を買うことができて、メトロに乗り込みプラターへ向かった。駅から降りると、すごい場末感のする殺風景なところだった。横断歩道もはっきりしないような道を不安げに進むと、ちょっとだが観覧車が見えた。間違ってはいないと思ったが、ため息が出るほど安心した。


黄金のヨハン・シュトラウスは期待を裏切ることなく私どもを迎えてくれた。日本で見た写真と全く同じだ。ヨーロッパの夏の陽に映える花時計。由緒はわからない。
 

突然現われたブルックナーの像。この半年前7番を聞いた。重かった。右は誰だろう。シェーンベルグだと思うのだが、活字体でないと読めない。この公園にあると、勝手に音楽家と決め込んでしまうのだが。
 

バスの中から見た樂友協会。ラデツキーが聞こえてきそうだ。右は、国立オペラ座。工事中だったが、見応えのある建造物だ。
 

ケルトナー通り遠望。遠くにシュテファン寺院が見える。


お目当ての『第三の男』の観覧車。当然造り直したものだが、どうしても見たかった。回りは市民の憩いの場、日曜で天気が良く、賑わっていた。オーソン・ウェルズという雰囲気は全くない。
 


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12 June

#83.ウィーン?

さあ、憧れのウィーンだ。ザルツカンマーグートからバスで一路ウィーンに入ったのは宵の口で、レストランでのご一行様揃ってのお食事が済んだら夜も良い時間になっていた。明日のウィーン観光のため、自重するのが今回のご一行様だ。アルコテル・ヴィンベルガーホテルの420号室で今夜はウィーンらしく静かに休むことにした。

明けて、朝からの観光はシェーンブルン宮殿だ。ウィーンの西の外れにあるこの宮殿は、ハプスブルグ家の夏の離宮だった。眼に飛び込んできたのは黄色い建物で、モーツアルトのLP盤のジャケットにあった見覚えのあるものだった。なぜか遠い昔から会っていなかったような懐かしい気持ちと、バーチャルの世界でしか知らなかったものがやっと現実のものに巡り会えたような嬉しい気持ちとが交錯して、今どこにいるのだろうと思った。

お天気の良い日だった。青く澄んだ日もそう言えば久しぶりだ。その青い空の中に、門柱の上にある羽を広げた鷲の像が威嚇してくる。1809年ナポレオンとの戦い敗れたオーストリアは、シェーンブルン宮殿でナポレオンに恫喝される。交渉の途中、コーヒーカップを持って立ち上がったナポレオンは、カップを床に落とし、粉々になったカップを示して「余はオーストリアをこのようにできるのである」と言い放ったのである。宰相メッテルニヒは恫喝されるフリをして、シェーンブルンの和約を結び、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚を仕立てる。ハプスブルク得意の婚姻政策であるが、ナポレオンの家系コンプレックスにつけ込んだメッテルニヒの見事な裁定であった。そのとき以来、ボナパルト家の家紋の鷲が羽ばたいているのだ。では、ジョセフィーヌはというと、シェーンブルン和約の後、世継ぎが産めない理由で離縁されてしまう。一方、マリー・ルイーズは1811年ナポレオン2世を生み、その子はローマで育てられたとのことだ。

入口でとんだ長話になってしまった。こんな調子で1400も部屋のある宮殿の話をしたら終わらなくなってしまうが、この宮殿では3人の女性を忘れるわけにはいくまい。

まずマリア・テレジア。このシェーンブルン宮殿を改築し観光資産に高めたのだ。黄色い壁の色は、まさしくマリア・テレジアのイエローなのだ。女帝といわれた彼女だが16人のも子沢山で、それこそ得意の政略結婚の手持ち札になった。その中のひとりに絵心に秀でた皇女がいて、姉妹全員の似顔絵が残され、綺麗に飾られていた。この絵も当然のことながら、お見合い写真として活躍したことだろう。そこで登場が末子のマリー・アントワネット。いやいやとてもカワイイ容姿で、これならルイ16世も気に入ったに違いない。だが、マリア・テレジアは自らが決めた嫁入り先だったが、死ぬまでマリー・アントワネットの身を案じていたそうだ。

もうひとり、ウィーンと言えば、シシィと呼ばれて親しまれているのがエリザベートだ。その部屋、その調度品の数々が残されているが、ため息が出るほど見事である。エリザベートは天与の美貌に加えて、その維持にも並々ならぬ腐心をしていたようである。50cmのウエストの維持、毎日侍女に抜け毛の本数を数えさせたことなどが伝わっている。世の中、頭の良いヤツほど勉強したり、スポーツのできるヤツほど練習したり、痩せている女性ほどダイエットを続けたり、格差はどんどん開く方向に向かっているようだ。


入口の門から大きな姿が見える。昔LPのジャケットで見た黄色い宮殿だ。


宮殿の左側が入口になっている。かなりの混みようだった。右はよく見るシェーンブルンっぽいアングルか。
 

裏庭の奥深く、丘の上にグロリエッテが見える。そこから見るウィーン市街は絶景とのこと。


手入れの行き届いた庭はとても綺麗だ。オーストリアの国旗を模した庭もあった。
 

帰り際、宮殿の前庭から門を見た。門柱の上にナポレオンの鷲が燦然と輝いている。
 


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