29 June

#582.亀戸七福神巡り? −余滴・大根と鎧−

恵比寿様と大黒様がダブルで祀ったある香取神社は、亀戸七福神の中では最大の集客力があるようだ。平日の午後ではあったが、この境内では植木市が開催され賑わっていた。その植木市に埋もれるようにあるのが「亀戸大根の碑」である。その大根は幕末のころから栽培が盛んになったそうだ。この界隈は荒川水系の粘土質の土壌のため、肉質の緻密な白く冴えた肌の大根が育ったという。30cmほどの先が尖ったくさび状の大根で、「おかめ大根」とか「お多福大根」と呼ばれていたが、大正の初期に「亀戸大根」と名乗るようになった。早春に出荷できるため、野菜のない季節の江戸や東京では貴重な品だった。現在、亀戸での大根栽培はなく、葛飾区の3軒の農家で栽培されているそうである。

香取神社にはまだ見世物がある。それは俵藤太秀郷の武勇で有名なこともあり、等身大の武者人形が飾られている。それも1体2体ではなく、能舞台のようなところに並んでいる。前列の真ん中に悠々と鎮座している武将は緋縅(ひおどし)の鎧に黄金の面をつけ、いかにも大将然としている。これが5月の端午の節句ではなく、いつも飾られているとは勝負の香取神社の面目躍如たるものがある。その武将が抱えている刀の長いこと、ヘタ振り回すと自分の足を斬ってしまうだろう。


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左は亀戸大根の碑。目立ちやすい形をしているので見つけやすいが、それにしても、この植木市はもう少し遠慮ってものはないのですかね。右は鎧武者。俵藤太秀郷かどうかは、確認するのを忘れてしまった。



18:35:28 | datesui | No comments |

21 June

#578.亀戸七福神巡り? −弁財天(東覚寺)・寿老人(常光寺)−

次の2つのお寺は明治通りの東側にある。香取神社を出て、まず通りを渡ることが最初の仕事だ。門の前の歩道橋を渡る。昭和の異物とも思える歩道橋だが、見渡せる範囲は狭いが見晴らし台のつもりで登れば急で登りにくい階段も忘れることができる。歩道橋の上から行き先を確認しておく。南に向いて見ると、目印のガソリンスタンドが見える。その横を入るのだ。

入った横丁の右手にお寺が見える、低い塀の中には墓地がある。ここが東覚寺だが裏側だ。もうひとつ角を曲がると東覚寺の門に出る。東覚寺は亀戸不動として江戸のころから賑わっていたらしいが、今は静かで品の良い瀟洒なお寺になっている。門を入ってすぐ右に弁天様の祠がある。これも品良く収まっていた。

東覚寺を出て、左の東の方向へ進む。ここから次の常光寺はすぐ近くなので、少々道を間違えてもそのうち辿りつくことは請け合いだ。広い通りに出るところが、三叉路だか五叉路だか、いい加減に道が集まってしまったような交差点になっている。信号機の先を見ると常光寺の立派な建物が見える。

かなり広い通用門を入ると、丸型ドームのような本堂の前の境内はきちんと舗装され、全体がシステム化されている仏教教団のように感じる。寿老人もどんなものか妙な期待や不安が浮かんだ。オートマチック寿老人とか寿老人メカニカなどというハイテク化された言葉が行き来した。ところが境内の端に昔ながらの木造の小さな祠を見つけ、これが寿老人だった。物置小屋と思える風情だったが、逆に安心した。七福神は素朴な民間信仰であるので、この程度が良いのだ。ホッとした気持ちで頭を垂れ、さっぱりした心地で常光寺の寿老人を後にした。

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今回は弁天様と寿老人の祠ではなく、対照的な本体の寺院を紹介する。左は東覚寺の境内。広くて穏やか、お寺としての風格もあり好感がもてる。右は常光寺。新装開店、駐車場完備か。ヤリ手の住職がいそうな新興寺院という雰囲気だ。今の仏教寺院に一番大切な集客力には絶対の自信ありという感じだ。


12:10:16 | datesui | 40 comments |

18 June

#576.亀戸七福神巡り? −恵比寿神・大黒天(香取神社)−

普門院を出て左に向かう、つまり北へ進む訳だ。Y字路を右に入ってしばらく歩くと広い通りに出る。左の押上方面から続く浅草通りだ。これを右に折れて少し歩くと葛飾北斎でお馴染の亀戸梅屋敷跡がある。本当に跡だけだ。そのまま北十間川に沿って東進すると明治通りと交差する。その福神橋の交差点を右に折れ、今度は南下することになるが、すぐに目的の香取神社が右手に現れる。

香取神社は境内の広さ、本殿の規模、いずれも一級品の威容がある。由緒も古くからの故事がたくさん積み重なっている。祀られているのは国家鎮護の神、経津主神(ふつぬしのかみ)の他、武甕槌神(たけみかづち)、大己貴神(おおなむじ)とのことだ。創建は天智天皇ころというから飛鳥時代になる。
その後、平将門が乱を起こしたとき、追討の命を受けた藤原秀郷こと俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)が、この香取神社に参拝し戦勝を祈願し、そのご利益があって乱はめでたく平定できたそうだ。それ以降、歴代の天皇、源頼朝、徳川家康などの武将、塚原卜伝や千葉周作の武芸家から崇敬を受けることになった。現在でも、勝利を願うスポーツ関係筋からの参拝は非常に多いそうだ。

参道は門をくぐると右へ折れるが、突き当りの本殿は見事だ。本殿の右手の野外だが、恵比寿様と大国様が仲良く並んで立っている。神社全体からみると、この恵比寿様と大国様は小さく貧相で、付け足しのような存在でしか見えない。ガラス張りの御神輿の格納庫や等人大の武者人形を並べている能舞台など、大きくて立派な施設がいくつもあり、香取神社は七福神如きで成り立っているような神社ではないことはわかった。
もうひとつ付け足しだが、恵比寿様や大国様より有名なのが亀戸大根の碑だ。この辺りが江戸の昔は大根の産地だったとのことだ。

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香取神社の境内。本殿は相当なものだ。本殿の右側手前に御神輿の収納庫があるが、その神輿も「こんにゃく神輿」といわれて有名なものだ。右は肩身の狭い恵比寿様と大黒様。何の御利益があるかわからないが、水を掛けるようになっている。


16:06:25 | datesui | No comments |

17 June

#575.亀戸七福神巡り? −福禄寿(天祖神社)・毘沙門天(普門院)−

龍眼寺を出て、少し細めの道を北東の方向に歩く。ほんの5、6分もすると木立に囲まれた天祖神社に出る。福禄寿を祀ってはいるが、本来は推古天皇の時代に天照皇大神を祀った神社で創建された。その後、織田信長の頃この地で疫病が流行り、信長が使者を遣わして流鏑馬を献じたところみるみる収まったそうである。今でも子供による歩射が行われるとのことだ。なお、現社殿は日本初の防災建築、鉄筋コンクリート製である。鳥居をくぐった右側に福禄寿がある。祠の前には手水舎(ちょうずや)もあり、かなりのスペースを割いている。

天祖神社を出ると南の方、つまり蔵前橋通り方面に向かう道に沿って歩き出し、商店のある道を左に曲がって東へ向かって歩く。小さな交差点を過ぎて、T字路を左に曲がると毘沙門天の普門院に着く。ここも大きな立派なお寺だが、手の入り方が薄い。全体に寂れた感じで、突き当りの本堂も壮大だが眠ったように静まり返っている。その左手に毘沙門堂がある。これも単独のお堂としては大きなものだが、こちら死んだように静まり返っていた。小説『野菊の墓』で有名な歌人の伊藤左千夫の墓もあるそうだが、探険する気の起きないお寺だった。

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左は天祖神社の福禄寿の祠。祠の前の立派な手水舎。左手の柱に御水舎とあるが、おみずやと読むのだろうか。左は普門院の毘沙門堂。まわりの草木といい、寂れた感じは一級品だ。


09:59:32 | datesui | No comments |

16 June

#574.亀戸七福神巡り? −布袋尊(龍眼寺)−

この七福神はコンパクトに収まっている。横十間川、北十間川の2つの川と蔵前橋通りの囲まれた三角形の中に七福神が入っている。蔵前橋通りと横十間川が交差する天神橋からの案内になるが、最大の目印はくず餅の名店船橋屋だ。亀戸天神の門前を守るようにしての店構えだが、天神様のお参りにどれだけの人が舌鼓を打っただろうか。その船橋屋ではなく天神橋の掛る横十間川の東側の道を北へ遡ると左手に栗原橋が見えてくる。そのすぐ先の右側の角が布袋尊を祀っている龍眼寺だ。

龍眼寺は萩寺とも呼ばれていて、江戸の昔から萩の咲き乱れる寺としても知られている。境内は思ったよりも広めで、手入れも良く行き届いていて好感がもてる。さて、お目当ての布袋尊は、門を入り真っ直ぐ進んで中央にある地蔵堂の先を右に曲がると2つ目の祠が布袋堂である。この龍眼寺は布袋堂や地蔵堂のほか、道祖神など様々な祠があってそれだけでも見て楽しいが、今回は布袋尊に集中する。
布袋尊に集中するのは良いが、布袋尊だけでは大したことはなく、お賽銭を入れて拝めばそれで終りという雰囲気である。仕方なく布袋様のご尊顔を眺めてみたが、龍眼寺のものがというものでもなかった。
萩の咲くころ、もう一度来て、本尊を拝み祠巡りやら道祖神を見てみたいものだ。

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龍眼寺の布袋堂。この一戸建ちの祠の中に布袋様が鎮座されている。内部の造りも立派でこんな待遇の良い布袋様は初めて見たような気がする。右は、龍眼寺の境内。手前に地蔵堂が見え、左手奥の八角形の建物が本堂。布袋堂は地蔵堂の向こう側にある。左手の手前から奥へは萩の植え込みが続いている。


18:43:14 | datesui | No comments |