Complete text -- "#83.ウィーン?"
12 June
#83.ウィーン?
さあ、憧れのウィーンだ。ザルツカンマーグートからバスで一路ウィーンに入ったのは宵の口で、レストランでのご一行様揃ってのお食事が済んだら夜も良い時間になっていた。明日のウィーン観光のため、自重するのが今回のご一行様だ。アルコテル・ヴィンベルガーホテルの420号室で今夜はウィーンらしく静かに休むことにした。明けて、朝からの観光はシェーンブルン宮殿だ。ウィーンの西の外れにあるこの宮殿は、ハプスブルグ家の夏の離宮だった。眼に飛び込んできたのは黄色い建物で、モーツアルトのLP盤のジャケットにあった見覚えのあるものだった。なぜか遠い昔から会っていなかったような懐かしい気持ちと、バーチャルの世界でしか知らなかったものがやっと現実のものに巡り会えたような嬉しい気持ちとが交錯して、今どこにいるのだろうと思った。
お天気の良い日だった。青く澄んだ日もそう言えば久しぶりだ。その青い空の中に、門柱の上にある羽を広げた鷲の像が威嚇してくる。1809年ナポレオンとの戦い敗れたオーストリアは、シェーンブルン宮殿でナポレオンに恫喝される。交渉の途中、コーヒーカップを持って立ち上がったナポレオンは、カップを床に落とし、粉々になったカップを示して「余はオーストリアをこのようにできるのである」と言い放ったのである。宰相メッテルニヒは恫喝されるフリをして、シェーンブルンの和約を結び、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚を仕立てる。ハプスブルク得意の婚姻政策であるが、ナポレオンの家系コンプレックスにつけ込んだメッテルニヒの見事な裁定であった。そのとき以来、ボナパルト家の家紋の鷲が羽ばたいているのだ。では、ジョセフィーヌはというと、シェーンブルン和約の後、世継ぎが産めない理由で離縁されてしまう。一方、マリー・ルイーズは1811年ナポレオン2世を生み、その子はローマで育てられたとのことだ。
入口でとんだ長話になってしまった。こんな調子で1400も部屋のある宮殿の話をしたら終わらなくなってしまうが、この宮殿では3人の女性を忘れるわけにはいくまい。
まずマリア・テレジア。このシェーンブルン宮殿を改築し観光資産に高めたのだ。黄色い壁の色は、まさしくマリア・テレジアのイエローなのだ。女帝といわれた彼女だが16人のも子沢山で、それこそ得意の政略結婚の手持ち札になった。その中のひとりに絵心に秀でた皇女がいて、姉妹全員の似顔絵が残され、綺麗に飾られていた。この絵も当然のことながら、お見合い写真として活躍したことだろう。そこで登場が末子のマリー・アントワネット。いやいやとてもカワイイ容姿で、これならルイ16世も気に入ったに違いない。だが、マリア・テレジアは自らが決めた嫁入り先だったが、死ぬまでマリー・アントワネットの身を案じていたそうだ。
もうひとり、ウィーンと言えば、シシィと呼ばれて親しまれているのがエリザベートだ。その部屋、その調度品の数々が残されているが、ため息が出るほど見事である。エリザベートは天与の美貌に加えて、その維持にも並々ならぬ腐心をしていたようである。50cmのウエストの維持、毎日侍女に抜け毛の本数を数えさせたことなどが伝わっている。世の中、頭の良いヤツほど勉強したり、スポーツのできるヤツほど練習したり、痩せている女性ほどダイエットを続けたり、格差はどんどん開く方向に向かっているようだ。
入口の門から大きな姿が見える。昔LPのジャケットで見た黄色い宮殿だ。
宮殿の左側が入口になっている。かなりの混みようだった。右はよく見るシェーンブルンっぽいアングルか。
裏庭の奥深く、丘の上にグロリエッテが見える。そこから見るウィーン市街は絶景とのこと。
手入れの行き届いた庭はとても綺麗だ。オーストリアの国旗を模した庭もあった。
帰り際、宮殿の前庭から門を見た。門柱の上にナポレオンの鷲が燦然と輝いている。
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