Complete text -- "#413.消費パワー"

15 June

#413.消費パワー

今は大衆消費社会という世の中で、みんなで何でもかんでも使ってなくしてしまうそうだ。石原慎太郎の『太陽の季節』はこの大衆消費社会を予言した作品で誉れ高いが、流石は石原知事、見事なご慧眼だ。ところが、その姿はどう見ても1980年代までのことで、バブル期のボデコンが想定できる範囲と思われる。

その後も大不況にかかわらず大衆消費社会は右肩上がりを続け、消費は減る気配を見せていない。モノが売れなくなったと言われているが、消費は拡大しているのだ。拡大の先は、モノではなく情報の消費に取って替わっていることによって達成している。ケータイによるサービスの拡張はこれからも増えるだろうが、有料のサービスは財布のキャパに決まってしまうだろうが、無料のサービスによる情報消費が夥しく増えることは今の状態からの容易に推測できるだろう。

その状態が「事件の消費」だ。次から次へと大事件が発生するのも困りものだが、その事件を片っぱしから消費してしまうのが今の大衆消費社会なのだ。中国の四川大地震で大報道がされる中、江東区の女性殺害遺棄事件の容疑者が逮捕されるとニュースは江東区のマンションに殺到し、今度は秋葉原で無差別殺人が起きれば中国の地震も江東区の殺人事件もほとんど扱われなくなる。そして、14日の土曜日、東北地方で大地震が発生した。死者も出ていて人的損害に加えて、物的損害も大きそうだ。

こうなると、秋葉原の無差別殺人事件、江東区の女性殺害事件、中国の地震、さらにミャンマーのサイクロン被害、などなど事実を見据えて、次への糧のようなものの蓄積など遠い話になってしまっている。表層的なところをすくって、五感の入口を通り過ぎるだけの情報に加工して、それこそ消費だけで終れる情報だけが飛びかっている。情報が氾濫しているから、そうでもしなければ仕方ないのかも知れないが、もう少し蓄積も考えた情報加工はないものだろうか。


23:59:26 | datesui | |
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