Complete text -- "#222.情報に囲まれて"

22 March

#222.情報に囲まれて

新聞を読んだり、テレビを見たり、本を読んだり、ネットを検索したり、さまざまな情報がさまざまな形で得られることは実に楽しい。情報にはたくさんの種類と形があるわけだが、その違いは鮮度だろう。活字文化の中核を占める、新聞、週刊誌、書籍を比較すると、情報の鮮度に差があることがわかる。生鮮食品のような新聞、対して書籍は缶詰のようなものだろう。その中間にある週刊誌は、食べ物でいえば干物のようなものになるのだろう。食生活では生もの、干物、缶詰などを配合良く食べることが必要だろうが、情報の世界でも、生鮮的情報、干物的情報、缶詰的情報をバランス良く摂取することが大切になるはずだ。情報は鮮度が命などといわれ、とにかく速いことが評価されそうだが、干物的情報や缶詰的情報の価値とはどんなことであろうか。つまり、鮮度に対抗する評価価値である。

速くて不都合なことは、時間の経過が必要なことだ。これには、時間が経たないと真相わからないことや、評価が定まらないことがある。つまり、干物的情報や缶詰的情報には真の姿や定説などの確度の高い情報に変換されていることになる。といことは、生鮮情報だけで済まそうとすると効率が悪い。情報量が増えてしまうこともあるが、数日立てばわかりやすくなる情報や不用になる情報もあるからだ。また、書籍のような情報は多くののフィルターを潜った選り抜き精選された情報であることや集約凝縮された密度の濃い情報であることが多い。だから、鮮度の高い情報だけではなく、さまざまな形の情報の摂取が必要なのだろう。

鮮度と確度、これが情報を評価する価値となる訳だ。そこで、活字文化以外の最大の情報であるテレビは生鮮的情報に違いない。ネットの情報はどうだろうか。これも生鮮的情報であることは変わりないが、少し様子が違う。テレビが扱う生鮮は産地表示やブランドの確かなトレサビリティーも可能である品質保証された情報である。ところが、ネットの情報は、品質管理の行き届いたお店では見られないような珍しいものや商業ルートに乗らないものまで手にすることができる。そこでは、賞味期限などの品質管理はおろか、有毒なチョウセンアサガオをオクラと間違えて売っているようなこともあるのだ。だから当然のことだが、情報の発信者の責任よりも受けての責任が問われることになる。また、鮮度と確度が情報の評価軸であったが、ネットの社会では希少性も評価軸になっている。活字文化では見られない耳より情報とか井戸端会議的な情報など、不思議な情報群がネットには存在する。発信者の責任があまり問われない社会だからできることではあるが、便利ではあるが危険も孕んでいる。いろいろな経験を積んで、いずれ落ち着くところへ落ち着くのだろうが、早く収束して欲しいものである。


06:00:00 | datesui | |
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