Archive for September 2006

13 September

#147.十五夜の月

先週末の秋の長雨に入る前、満月のきれいな夜があった。十五夜かと思ったが、今年の中秋の名月は10月6日だそうだ。去年は9月18日であったが、何となく10月では遅いような気がする。小さい頃染み付いた十五夜のイメージは8月だ。花札の二十ボウズからの印象なのだが、そのころは新暦も旧暦も知らなかったから、そのまま8月になったようだ。それにしてもこの札、前景に黒い山を思わせるススキに白く大きな月、そしてバックの空はナント赤だ。思わず唸る大胆かつ周到な意匠は、日本が誇れる美の典型だ。

ところで中秋の名月は、中秋と仲秋の2通りの記述がある。雰囲気的に仲秋の方がカッコ良かったので、仲秋を使っていたら、十五夜の月は仲秋ではなく中秋の名月とのことだ。
旧暦の秋は旧暦の7、8、9月の3か月で、その秋の真ん中の日にあたる8月15日を中秋といって、この日の月を十五夜の月と呼んだ。旧暦だから月の満ち欠けとは連動が良いが、それでも十五夜は満月の夜とは限らない。今年も齟齬があって、十五夜のほうが1日早い。

では、仲秋だ。秋の3か月は別名があって、初秋、仲秋、晩秋とか、孟秋、仲秋、季秋などと呼ばれている。いずれにしても、真ん中の8月は仲秋というのだ。つまり、旧暦の8月のことを仲秋といって、旧暦8月の月を仲秋の月ということになる。中秋の名月は十五夜の月、一晩の月だが、仲秋の名月は8月ひと月分の月ということになる。
ところで、何で仲の字が使われているのか。それには、孟、仲、季の並びを調べるとわかる。まず、孟だが、辞書によれば、はじめ、かしら、おさ、というような意味が並び、最初を示す言葉であることがわかる。次は、仲と季だが、中国では男の兄弟を上から、伯、仲、叔、季という。伯は長兄、仲は次兄、そして季が一番下の男をいい、仲と季の間は全て叔となる。ということは、仲が2番目を意味し、季は最後を意味することになって、孟秋、仲秋、季秋の並びができあがることになる。

ひと月の間、秋の夜長の月を楽しみたいのなら、仲秋の名月という表記になる。こうすれば1か月も間、毎晩月見酒が楽しめることになる。


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11 September

#145.ブッポウソウ

ブッポウソウの鳴き声の正体が、コノハズクというふくろうの一種であることはよく知られた話だ。一方、ブッポウソウという名の鳥は青緑の美しい姿をしているが、ギャーギャーとかゲーゲーと鳴くようで、ブッポウソウとはほど遠いようである。ブッポウソウの正体がまだつかめないころ、あるラジオ番組でブッポウソウの鳴き声を録音に成功したので放送したところ、浅草のお店で「ウチのフクロウが同じ声を出す」という投書があったそうだ。早速、出掛けたところ、まさにそうだったので正体がわかったそうだ。美しい姿をしているだけで、美しい声を出すと思われた姿のブッポウソウはバツの悪い思いをしたことだろう。

同じようなことが日常もよく起きる。電話であまりに美しい声と語り口を聞いて、声の主を妄想とも思える想像を膨らましてみたりした経験は誰しもあると思える。クイーンというイギリスのロックバンドがあるが、ヴォーカルのフレディ・マーキュリー、これをいつも勘違いしていた。名曲『ボヘミアン・ラプソディ』の声を聞いてからクイーンの写真を見れば、ブライアン・メイあたりの姿をフレディ・マーキュリーだと思っていたのだ。事実、フレディ・マーキュリーが容貌を変える度に何度も勘違いをした。その極みが、あのマンガの「こまわり君」のように見えたのだが、恥ずかしいので黙っていたら、同じようなことを感じている人がいて嬉しくなった。『6×9の扉』と書いて「ロックのとびら」という本の著者小貫信昭が、その本の中でチョビ髭をはやしたフレディ・マーキュリーを「こいつ、こまわり君だ」と言っているのだ。すごく安心したことを思い出す。

実は、もうひとつある。アルフィーだ。3人のキャラクターが時間を経て、素晴らしく醸成したようだ。ビジュアル系の高見沢に、フォーク・フツー系の坂崎、そしてワイルド系の桜井の取り合わせが実に良い。なぜか桜井が好きなのだが、この桜井もブッポウソウだ。アルフィーを聞いてから写真見たら、高見沢に目が行くのは仕方がないと思う。でも、あの声は桜井なのだ。デビューからの永い間、アルフィーを支えたのは桜井だ。桜井がんばれ、俺がついているぞ。ナニ!、迷惑だと。



補遺
『6×9の扉』は皆さまの想像通り、6×9=54のロック・ミュージシャンを紹介している。ソリスト、グループ含め、50年代から90年代の初めまで、手際よく俯瞰できるが、当然のこと音は出てこない。

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07 September

#143.汎化と分化

先日の「#137.虫視的ということば」に対して、仙台のA先生から素晴らしいご教授を賜りました。「汎化と分化」ということです。学習心理学でのことばで、梅も桜もともに花とするのが汎化、同じ花でも梅と桜の区別がつくようになるのが分化ということです。
小学校以来、汎化と分化は何度も繰り返し習ってきたのですが、汎化はくどいように教わった記憶がありますが、それに引き換え分化は分化を意識して教わった記憶がありません。先日も書いたのですが、「ナシ、モモ、リンゴ」というと、「くだもの」と直されたり、「クマ、イヌ、サル」といえば「どうぶつ」とか「けもの」と直された記憶が甦ります。
ところが、花の名前、動物の名前などを教わることは何度もあったのですが、分化ということを意識して教わってはいなかったようです。単に知識を増やすということで終ってしまって、汎化の反対の概念であるということはないままでした。逆に、汎化は現在の知識がそのまま使えないということもあり、汎化ということばとは別に、煩わしいこととして身についたようです。
学校のお勉強の良くできた方々は汎化が得意です。このような人たちはお役所に多くいるせいか、お役所の文章は汎化に満ちています。童話の『さるかに合戦』も、「さるがかにの柿を食べた」というところを、「ある哺乳類が、ある甲殻類の果実を食べた」となるのかも知れません。


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06 September

#142.枝豆と十五夜

先日、山形鶴岡の名産の枝豆、白山の「だだ茶豆」なる珍味をご馳走になった。何とも言えない甘味があって、実に美味しかった。枝豆にもグレードがあって、名の通ったものはさすがに違いがあった。
外国の方に枝豆をご馳走したら、大変美味しがったのを覚えている。枝豆は大豆であるのだが、これが大豆であることや、第一大豆が食べものであることさえ不思議に思う人たちである。スーパーの枝豆を茹でただけだが、大いに喜んでくれた。

枝豆について小学校のころの思い出がある。お習字の時間に「十五夜枝まめ」という課題があった。時間内にうまく書けなかったので宿題になってしまったので家で書いていたら、近所のオヤジが「粋なこと書いてるね」と言ってきた。学校の教科書のお手本だと言ったら、なおびっくりして、「先生も喉が乾くだろうな」と言って行ってしまった。その日は何度もチャレンジしたが、枝という字の右払いがうまく書けなかったことが今でも思い出す。でも、それ以上に近所のオヤジのことばが残ったようだ。枝豆も十五夜ということばと一緒になると、次はビールとなるのが人情だろう。小学校の教科書とは言え、その雰囲気だけは後世に残して欲しいものだ。
一方の十五夜だが、今年はなぜか10月6日だ。やはり、枝豆の美味しいときの方が相応しい。


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05 September

#141.言葉の美しい日本

安倍晋三が「美しい日本」を打ち上げた。確かに今の日本は美しさが欠けてきたので、大いに結構なことだ。では、何が美しくなくなっているのだろう。気になることはたくさんあるのだが、お行儀と言葉づかいだろう。特に、言葉だ。本や新聞を読まなくなって、電波メディアやネットが言葉の主要な修練の場になっているのが現状だろう。特に、話し言葉はテレビによることが多いだろう。
そこで、今テレビのバラエティー番組などで流れてくる日本語は美しい日本に相応しいものかという疑問を投げかけたい。言葉を慎重に選んで練り上げた言い回しからなる台本があるとは思えない番組は、軽薄で安っぽい言葉が飛び交っている。ただ、烏合の衆がガナリ合っているだけの様相である。
このような番組は、効率が良いのか各局で取り上げられ大繁盛である。反復の効果を考えると、この行く末少なからず、これらの番組の影響が現われてくるだろう。そのときは、どんな日本語になっているのか想像もしたくないが、何とか手を打てないものか。安倍晋三新総裁、バラエティー番組に限って放送禁止用語なるものを制定できないでしょうか。


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