Archive for February 2007

27 February

#209.社会を変えるもの

テクノロジーが社会の姿を規制するという。現在、パソコンやネットというものが得体の知れない不思議な社会をどんどん増殖させているのを体感していると思う。これもテクノロジーのなせる業なのだろうが、自然科学に立脚したテクノロジーは社会全体に限らず、科学技術に縁遠いような文化の世界までも影響を与えている事例がある。

よく引き合いに出すのがピアノだ。ピアノ曲はモーツアルトあたりから現われ、ロマン派とともに急激に増加したようである。個性を重んじるロマン派として、ピアノは恰好の表現媒体だったようで、ピアノはロマン派の申し子のように成長した。ところでピアノは、ヴァイオリンと違って工芸品ではなく、工業生産物なので生産に必要な技術の裏づけが欠かせない。この技術が、ピアノ線をつくる製鉄業であり、キーファンクションをつくる機械工業なのである。産業革命後、武器製造などで磨いた鉄鋼精錬技術と精密加工技術がピアノを育てたと言っても過言ではないだろう。
こうして見ると、印象派の絵画とチューブ絵の具、1875年の第1回パリコレと合成染料の発明など、文化へテクノロジーが影響した事例はまだまだたくさんありそうだ。

話は日本の足利時代へ跳ぶが、この時代は中央の統制力が弱く万事がダイナミックに動いたときでもあった。特に文化の領域では様々な階層の人たちが活動に参加して、今日の日本文化の礎ともなるたくさんの諸芸を生み出した。その人たちだが、従来はお公家様か僧侶しか参加できなかったものが、武士、町衆、農民まで参加するようになった。これは、統制力が弱まったことによる制約が消えたり、下剋上という風潮があらゆることに攪拌の作用をしたり、ということで説明されていた。

だが、ここで注目したいのは「あかり」である。足利時代に広まったもののひとつに灯油がある。灯油といっても石油から精製される灯油ではなく、荏胡麻(えごま)を絞った植物油である。これが広まったお蔭で生活が一変した。夕食後、これまでは漆黒の闇なので寝るしか能がなかったが、余暇時間ができた。これが昼間から文化活動ができた公家や僧侶に加えて、昼間忙しかった人たちも文化活動に参加できる機会を得たのだ。こうして、武士、町衆、果ては農民や河原乞食までが文化活動へ参入してきたのである。この「あかり」は自然科学に立脚したものではないが、当時の社会の中では新しいテクノロジーだったのだろう。


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20 February

#205.ルーツを辿れば

先日本屋に行って気づいたことだが、自分の関心領域は普通の方々も関心のあることと勘違いしてしまうことがある。今から600年ほど前、足利時代という魅惑の時の流れがあった。実はこの時代が大好きでたまらないのだが、巷での人気は思いのほか低いようだ。書店の棚を見ても、足利時代は無理だろうが室町時代という棚ですらほとんどなく、淋しい気持ちになることがある。たまに中世の棚があっても狭く、しかも戦国時代となっていることが多い。
確かに、このころの200年間、国中は乱れに乱れたが、その反面きわめて豊饒な文化を生み出した不思議な時代でもあった。今に伝わる日本の諸芸や生活文化には、この足利時代を起点としているものがとても多い。茶道、華道を始め、能、狂言、連歌、香道という芸能は言うに及ばず、生活の舞台である座敷や床の間、西洋の蛮族でさえ驚嘆した庭もこの時代の産物で、まさしく日本の美意識そのものであり、日本人の生活様式の大元をつくったと言ってよいものがある。

特に、今日の日常生活の基本となる部分を遡っていくと、意外にも足利時代に辿り着くものが多いことがわかる。衣食住の住であれば、現在の間取りの基本となった書院造りは足利時代に成立したものだ。前述した座敷や床の間を含め、それが生み出した四畳半文化は「眼は口ほどにものを言い」というような日本人独特のコミュニケーション文化の形成に重要な役割を果したことは疑いもない。また、衣では、現在の和服の原型である小袖がこの時代に正装として定着した。それまでは下着としての扱いだったようだが、その活動性が上着に昇格させたとのことだ。さらに食については、日本の味を代表する醤油がこの時代に作られたのだ。味噌は奈良時代からあったそうだが、味噌汁という形になったのもやはり足利時代である。その味噌から醤油がつくられ、自家製自家消費だったものから商品化されたのもこの時代である。

小袖、醤油、書院造り、日本人の日常の衣食住における中心アイテムが、揃って足利時代に端を発していることは極めて興味のあることだ。世界に誇る日本の生活文化や美意識の源が足利時代であるのに、その扱いはあまりにも冷遇ではないかと考える。日本の文化を大切にしようとするなら、せめて書店での足利時代の棚の幅くらいは広げてもらいたいと願っているものである。


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13 February

#201.新しくなるための混乱

暖かい日が続いている。立春も過ぎて10日になるが、いまだに初雪も見られない。それどころか、木々は芽を吹き、若葉を広げている木さえ見受けられる。病み上がりの身体としてはとても有難いことなので、天の神様には感謝の気持ちで一杯ということになる。でも、巷は暖冬で厳寒需要が細り大変だと思われる。冬物重衣料、暖房用具、鍋の食材、カゼ薬など、直接的な需要は言うまでもなく、直接的な需要が引き起こす「ついでの買い物」も減ってしまっていることだろう。

こんな日、メール友達である先輩から『明治五年』を書き綴ったものを添付したメールが届いた。書き綴ったものを読むと、おもしろかったので、感想を加えて紹介させていただく。

維新からわずか五年目、古い制度や風習が残る中、西欧型独立国家を目指す明治新政府は、次々と新政策を打ち出した。そのクライマックスが明治5年だったようで、実に重要な政策が執られている。
◆庄屋・名主・年寄制度に代わる区長・戸長・副戸長制度、◆土地売買の禁止解除、◆人身売買禁止、◆寺社の女人禁制解除、・・・・というような旧態の改正や廃止、また、◆陸海軍省の設置、◆学制、◆京浜間汽車開通、◆官営工場の先駆け「富岡製糸場」開設、◆太陽暦採用、・・・などの新体制の導入や設立などが相次いでいたと、記述されていた。

この他にも多くの新政策を、矢継ぎ早に繰り出した明治政府のバイタリティには、ただただ舌を巻くばかりだ。月刊の『伊達や酔狂です』の2006年6月号に、1960年から1975年ごろのヨーロッパの様子を書き綴ってみたが、そのころのヨーロッパも大変な動乱期で、国家の番付が塗り替わる戦争が相次いで起きていた。その最中で起きたのが明治維新で、明治政府のお役人にすれば、全速力で走っている特急列車に飛び乗るようなことだったと思われる。

新橋・横浜間の鉄道開通も、言われてみれば明治五年ということが思い出されるが、こんな忙しいときとは知らず、「汽笛一声新橋を〜」とのんびりした様子を思い浮かべていた。また、そのときはフランスの都合で設立した富岡製糸場も、このような中での設立では日本の将来を見据えた殖産産業であったという評価は当然なことと思える。
富岡製糸場は一部の人しか関与しなかったろうし、鉄道の開通も見物の対象にはなったものの実際に乗れるような身分の人は限られていただろうから、このような新政策も庶民には縁遠いことだったに違いない。ところが、太陽暦の採用は日本国民全員に影響の及ぶことで、さぞかし大混乱だったと思われる。

明治五年の秋も深まったころ、全国の暦屋から明治6年の暦が売り出され、明治6年が閏年だったため売れ行きは好調だったそうだ。当時の暦での閏年というのは1年が13か月だったため、暦がどうしても必要という事情があったと思われる。だが、その矢先の11月9日、突然改暦の詔書と太政官布告が発表されてしまった。
太政官布告三三七号は「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦・・・来ル十二月三日ヲ以ッテ、明治六年一月一日・・・」ということで、12月3日をいきなり翌年の1月1日にするということだ。大晦日もないまま正月なってしまうのだから、混乱は大変なものだったと思われる。月日だけではなく一日の時間も、午前12時間、午後12時間の24時間制になり、それまでは暮れ六つとか明け六つなどと言っていたのだから人々は毎日の暮らし方は上へ下への大混乱だったろう。

この改暦の突然の事情は、外交問題で急を要したことに始まるらしい。日本の得意技の外圧だ。そのころ、日本の太陰暦の使用について、欧米各国から野蛮国と陰口を叩かれていたことによるものらしい。これが交渉の妨げになると感じ、一気に改暦に走ったという事情である。主な交渉の相手であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどから要求されたそうだが、当時のロシアは西暦といってもローマ時代の遺物のユリウス暦であったのに偉そうに要求に加わったそうである。


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