Archive for November 2007

28 November

#309.感性の鈍さ

ヤフーの記事を読んだら、動画投稿サイト『ニコニコ映画祭』の大賞受賞作品は大荒れの様相らしい。問題となったのは『サンタ狩り』という作品で、全身タイツに身を包んだ2人がサンタを追い回しバットのようなもので殴りつけるというものらしい。これには周囲から異論が相次ぎ、審査員のひとりで20歳の女性タレントがお詫びを述べたそうだ。なんでも「ストーリーの展開がわかりやすかった」らしいが、暴力的とは感じなかったそうである。

最近ため息をつくことなのだが、まず深い理解よりも手っ取り早くわかることが重宝されすぎている嫌いあることだ。『すぐわかるフーリエ級数』なんていう本が出ているが、果たして何がわかるのか心配になる。

でも、もっと憂慮するのは、暴力に対する無感状態であることだ。人の痛みがわからない想像力の欠如も問題だが、安易に暴力が売り物になり過ぎていることだ。
テレビでお笑い芸人と称する人たちの立ち振る舞いを見聞きしていると、口汚い言葉や暴力で他人を攻撃しているだけが芸のようだと思える。これがどこのチャンネルでも繰り返されていて、およそ芸とは言えないようことをしているのが今のお笑い芸人らしい。

こんなことを毎日見ていれば人を殴る蹴るなどということは当たり前のことで、ちょっとのことでは暴力と感じられなくなってしまうのだろう。幼い子供たちもこれを毎日見て育つのだと思うと、2、30年後の日本はどうなるのだろうか、恐ろしくて想像もできない。


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25 November

#307.読書シェアリング

読みたい本があるのは結構なことだが、どういう訳か重なることがある。軽い本なら一気に片付けてしまって、次ということも可能だが、重厚な本になるとそうはいかないので何冊か並行して読むことになる。2、3冊なら併読も無理なく読み進むことができるが、4冊を超えると難しくなる。内容が混乱するというのではなく、進度にバラつきが出て併進できなくなるのだ。つまり、結果として2、3冊の併読と変わらないことになるだけなので、それなら少し待った方がいいことになる。

一方、本は出会いが大切で、読める時読まないと読む機会を逸することになる。また、一生のうちに何冊本が読めるかということを考えると、実は大して読めないことがわかる。1週間に1冊読んでも1年で50冊だ。50年かけても2500冊にしかならないのだ。すべての本に出会うことは不可能だし、書店にあるものも限りがある。しかも買いそびれると忽ち書店の棚から消えてしまう。そうすると2度と会うことはできず、結局読まずに終わってしまうのだ。
ところが、最近はアマゾンのようなネットでロングテールを探すことができるので、一度限りの出会いというのは緩和されたようだ。思いついたときに検索してみると欲しいものが見つかるだけではなく、程度の良い古本が安く手に入るのがとても嬉しい。これで、読み損じた本もずいぶん読めるようになった。

先日、長年探し続けていた本が突然見つかった。熊倉功夫著『後水尾天皇』という本で、#301の中世好きの行き着くところとして読みたい一冊だった。中世、特に足利時代に多彩な諸芸が興りダイナミックに展開されてきたが、それが統合されひとつの到達点になったのが後水尾天皇のサロンだと思えるからだ。早速、手にできて嬉しかったのだが、運悪くちょうど4冊併読に入ってしまった時だった。暇のあるときは不思議と手に入らなかったが、こんな時に限って欲しいものが手に入るとは何たる星の巡りあわせであろうか。仕方なく傍に置いてあるが、4冊併読の合間に1ページほどを読んでは4冊へ戻るという何とも哀れな状況である。


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13 November

#300.なんとなく300回

お蔭さまで300回になった。続けていれば300回もいつかは来てくれるので、ありがたいことだ。ところが数回前から意識していたのだが、何の準備もできないまま300回になってしまった。格好良いことを書こうとか、300にふさわしいことを書いてみようとかは思ってみた。だが、どうにもならないまま300回は来てしまったので、ありがたいと言ってはみたものの情けなくもある。

そこで、今年起きたことで300にまつわることを考えてみた。そう言えば『スリーハンドレッド』という映画を見ている。しかしこの映画はつまらなかった。間違いなく今年見た中での最低になるだろう。去年の『THE有頂天ホテル』、一昨年の『オーシャン12』、さらに先一昨年まで遡った『華氏911』まで入れてもダントツのビリだ。要は選び方が悪く、少しはマシなものの中からのビリなら、断然のダントツにはならなかったのだ。丁度、5月6月は絶不調の最中にあって、何もする気が起きなかったのを無理矢理出掛けたからで、映画に悪いことをしてしまった。

こんなことでは仕方ないので、目に前にある岩波の国語辞典を引いてみたら、三百代言という言葉が出てきた。いい加減な弁護士のことだそうだ。明治前期に代言人という名だった弁護士の中には無免許の者がいたらしい。300文の価値しかないことから、こう呼ばれたそうだ。転じて、詭弁を操ることやそういう人というのが現在の用法だ。

少しは気の利いたことでもと思っていたが、つまらない映画と魅力のない言葉が出てきてしまった。よくよく考えれば、伊達酔の300回にふさわしいことかもしれない。


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07 November

#296.通り抜け厳禁

「私道ですので」とか「私有地につき」ということで、通り抜けを断る表示を見かける。部外者の通り抜けを禁止しているもので、中から外への禁止要請である。このように禁止要請の類は中から外へのものがほとんどである。逆に、通り抜け禁止を読んで通り抜けができることを知ることにもなるのだ。だから、飲み屋街や昔の風俗地帯では、「ぬけられます」とか「駅への近道」などと書いて集客をねらうこともあるようだ。このような近道には忌避感が働くこともあるが、踏み込んでみたいという誘惑が大きいのも現実である。

この1週間ほど、膠着状態気味の政治の世界に動きがあった。大連立の話が出て民主党は大荒れ、自民党の福田君は思いもしない得点をかなり稼いだと思われる。夏の参議院選挙前は政府や自民党は失策続きで、民主党は相手のエラーで得点を稼いだが今度はその逆が起きたわけだ。
小沢君は次の選挙で勝って政権を取るといっていたので、連立への受け入れは周囲から猛反発を受けたわけだ。でも、小沢君にしてみれば、農林水産大臣をはじめ国土交通、厚生労働などの生活関連のポストをとれば次の選挙で勝算ありと思ったのだろう。特に農林水産を獲れば、今回の参議院選挙で勝った一人区対策の仕上げができそうに思ったに違いない。利権の塊の国土交通も手に入れば700万票とも言われる懐かしい土建屋の票も手にできる。さらに、厚生労働を陥せば大票田の高齢者に向かって集票政策が展開できるのだ。また、最近の選挙を動かしたと言われる浮動票の中核である未組織労働者への政策展開も可能になるが、この層は小泉純一郎とか石原慎太郎のようなアイドルでしか動かないから、取り込むより無能力化に努めるだろう。

こうして思うと、次の選挙に勝って政権交代のためには、大連立というのは一番手っ取り早い選挙に勝つ方法だったのだ。大連立については民主党内部でも首相ならOKということだったらしいが、これだと政権交代ではあるが選挙によるものではない。ここは首相を捨てても選挙を採った小沢君の判断はあながち裏切りとも思えないフシもある。選挙に勝つ確実な近道を通り抜けようと思ったら外から待ったが掛かってしまったわけだ。


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02 November

#294.フィクション

昔の偉人の話を人生の糧にするのは大いに結構なことだ。ただ人生の糧にするのは良い話だけとは限らない。反面教師も必要だし、またそれ以上の例が必要になることもあるはずだ。

急に真面目腐って校長先生のような話を始めてしまったが、『嫌われ松子の一生』という映画を観たからだ。近所のユナイテッドシネマ豊洲で特別放映800円という企画があって、見逃したものだが都合よく観ることができた。少しは期待して入ってみたが、映画が始まっての10分間ほどはイライラのしどうしだった。だが、暫くすると、この映画の良さというかストーリの緻密さと小さなプロットを積み上げての構成力に引き込まれていき、嫌われ松子に同情したり、応援したりしたくなったのだ。主人公のことを劇中でも「くだらん人生だ」などと決めつけていたが、このような人生を示すことも反面教師になるだろう。いやいや、それどころか一考に値する人生なのかもしれない。

松子の人生は失敗の連続とそれに重なる不運があり、さらに首を傾げたくなるような判断や行動を松子自身がしてしまうのだ。松子の話は伝記に近いものだが、家族に縁を切られ、風俗業に身をさらし、何人のも男に裏切られ、挙げ句の果てにヒモを殺して服役までするという普通には巡り合いにくい人生だ。だから、考えてみる価値があるのだろう。

フィクションは倫理学の机上実験と思えるところがある。当たり前の人生では体験できない境遇に身を置くことも可能なわけで、ここが伝記を超えた素晴らしさがある。裏切りや詐欺行為、不倫関係、暴行さらには殺人、という非日常のことへの加害者、被害者の両方の立場に立つことができるのがフィクションの世界なのである。また、当然なことながら、そうそう簡単に体験できそうもない大きな感動もフィクションの世界なら可能になる。

想像力が欠如した現在、フィクションのもつ役割はとても重要になってきている。フィクションだからこそ得られる衝撃や感動から思い馳せることをもっと持ってもいいだろう。


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