Archive for December 2007

13 December

#318.オトナのハナシ

マーケティングの気の置けない仲間と話をしていたら、マカオのカジノが盛況で、日本のカジノ談義も盛んになるのではという話題になった。すぐさま頭に浮かんだのはオトナの文化として認められるだろうかという心配だ。

カジノと言うと賭け事になるが、「立てばパチンコ、座ればマージャン、歩く姿は馬券買い」という言葉に代表されるように日本では賭けごとは軽蔑や揶揄の対象でしかなかった。従って、日本の賭け事の文化は欧米のそれとは異なり極めて寂しいものである。日本では儒教思想からくる厳しい倫理観により支配層には賭博が厳禁だった。そのため賭け事の文化は庶民や一部の特化した人たちの間でしか育たなかった。これではカジノが目指すオトナの遊びとしての賭け事にはなりえなかったのである。

カジノでのオトナを考えてみると、カジノは単なる賭博場ではないので、血眼になって切った張ったではいけないようだ。優雅な社交場でもあり、ラスベガスやモナコのように、F1やボクシングのタイトルマッチが行われるエンタテイメント空間と見た方が良いようだ。このようなところで博打を楽しむオトナとはどんなオトナだろうか。
つまりオトナの品格が求められるが、品格のもとは教養だ。リベラルアーツと呼ばれる教養は、普通思われている知識や学歴ではなく、品性豊かな立ち振る舞いを言うそうだ。粗野な行動や態度はもちろん厳禁だが、美しい所作や言葉を礼儀正しく使いこなせなくてはならないのだろう。隣り合ったお客同士も洒落た会話が交わせるようなことが求められているのかもしれない。

ここで20年ほど前の話を急に思い出した。読売巨人軍に助っ人として来日したホワイトの言ったことだ。日本のゴシップ好きの記者に対して、「何でも話すけど、政治のこと、宗教のこと、お金のこと、セックスのことは話さない、書かないで欲しい。」とクギを刺したことだ。アメリカ社会を考えればハハ〜ンと頷けるが、実に含蓄の深い言葉でその後は座右の銘に近い存在となった。特にあまり親しくない人や一定の距離を置かなくてはいかない人との付き合いでは少なからず役に立った。上質な社交の世界ではこのように話してはいけないタブーがあり、反対に好ましい話題や気の利いた話もあるのだろう。そのような訓練や場数を踏んで良いオトナになれる訳だが、子供を避けるオトナの話はセックスの話が相場なのだが肝心なものが抜けたような気がする。


補遺:そのような話は親しくなってから始めること。

17:25:00 | datesui | No comments |

03 December

#312.引用

シャキシャキとかプリプリとか、食べ物のおいしさを表現する言葉は実にたくさんある。これらの言葉が示す状態やその表現の縁、さらにはその使われ方まで楽しく記した本がある。早川文代の『食後のひととき』という本だが、そう言えばということからナルホドやビックリまで、大いに楽しめる。

本を読んでいくともう一つのビックリに出会う。それは引用の対象の広さで、その間口の広さに舌を巻く。古くは古事記から源氏物語、太平記や浮世風呂などの古典、現代文は漱石から嵐山光三郎まで登場し、更には中国の論語や春秋左氏伝に手が伸び、辞書も広辞苑はもとより江戸時代に作られた日葡辞典も扱われているのだ。その中でも脱帽モノが、つげ義春の『長八の宿』からの引用だ。

つげ義春は1960年代を代表する劇画作家だが、そこまで手を広げているとは恐れ入った。つげ義春はシュールな社会派というイメージだが、この『長八の宿』は少し趣が異なるほんのりとした作品なので、胸の奥に残るところがあった。そこに登場する使用人のジイさんが寸暇を惜しんで昼食をとるときにカリカリという言葉が登場しているのだ。早川はこれをスピード感の表現としているが、原著ではたった1か所のことで、しかも左端の小さな1コマのことだ。よくぞそこまで目を配っていたものだと、改めて驚嘆と畏敬を感じる。スゴイ!


蛇足だが、『長八の宿』に出てくる入江長八もひょんなことで関心が湧き、伊豆の松崎まで長八記念館を訪ねたことがある。機会を改めてご案内するつもりだ。
11:28:16 | datesui | No comments |