Archive for 13 February 2007

13 February

#201.新しくなるための混乱

暖かい日が続いている。立春も過ぎて10日になるが、いまだに初雪も見られない。それどころか、木々は芽を吹き、若葉を広げている木さえ見受けられる。病み上がりの身体としてはとても有難いことなので、天の神様には感謝の気持ちで一杯ということになる。でも、巷は暖冬で厳寒需要が細り大変だと思われる。冬物重衣料、暖房用具、鍋の食材、カゼ薬など、直接的な需要は言うまでもなく、直接的な需要が引き起こす「ついでの買い物」も減ってしまっていることだろう。

こんな日、メール友達である先輩から『明治五年』を書き綴ったものを添付したメールが届いた。書き綴ったものを読むと、おもしろかったので、感想を加えて紹介させていただく。

維新からわずか五年目、古い制度や風習が残る中、西欧型独立国家を目指す明治新政府は、次々と新政策を打ち出した。そのクライマックスが明治5年だったようで、実に重要な政策が執られている。
◆庄屋・名主・年寄制度に代わる区長・戸長・副戸長制度、◆土地売買の禁止解除、◆人身売買禁止、◆寺社の女人禁制解除、・・・・というような旧態の改正や廃止、また、◆陸海軍省の設置、◆学制、◆京浜間汽車開通、◆官営工場の先駆け「富岡製糸場」開設、◆太陽暦採用、・・・などの新体制の導入や設立などが相次いでいたと、記述されていた。

この他にも多くの新政策を、矢継ぎ早に繰り出した明治政府のバイタリティには、ただただ舌を巻くばかりだ。月刊の『伊達や酔狂です』の2006年6月号に、1960年から1975年ごろのヨーロッパの様子を書き綴ってみたが、そのころのヨーロッパも大変な動乱期で、国家の番付が塗り替わる戦争が相次いで起きていた。その最中で起きたのが明治維新で、明治政府のお役人にすれば、全速力で走っている特急列車に飛び乗るようなことだったと思われる。

新橋・横浜間の鉄道開通も、言われてみれば明治五年ということが思い出されるが、こんな忙しいときとは知らず、「汽笛一声新橋を〜」とのんびりした様子を思い浮かべていた。また、そのときはフランスの都合で設立した富岡製糸場も、このような中での設立では日本の将来を見据えた殖産産業であったという評価は当然なことと思える。
富岡製糸場は一部の人しか関与しなかったろうし、鉄道の開通も見物の対象にはなったものの実際に乗れるような身分の人は限られていただろうから、このような新政策も庶民には縁遠いことだったに違いない。ところが、太陽暦の採用は日本国民全員に影響の及ぶことで、さぞかし大混乱だったと思われる。

明治五年の秋も深まったころ、全国の暦屋から明治6年の暦が売り出され、明治6年が閏年だったため売れ行きは好調だったそうだ。当時の暦での閏年というのは1年が13か月だったため、暦がどうしても必要という事情があったと思われる。だが、その矢先の11月9日、突然改暦の詔書と太政官布告が発表されてしまった。
太政官布告三三七号は「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦・・・来ル十二月三日ヲ以ッテ、明治六年一月一日・・・」ということで、12月3日をいきなり翌年の1月1日にするということだ。大晦日もないまま正月なってしまうのだから、混乱は大変なものだったと思われる。月日だけではなく一日の時間も、午前12時間、午後12時間の24時間制になり、それまでは暮れ六つとか明け六つなどと言っていたのだから人々は毎日の暮らし方は上へ下への大混乱だったろう。

この改暦の突然の事情は、外交問題で急を要したことに始まるらしい。日本の得意技の外圧だ。そのころ、日本の太陰暦の使用について、欧米各国から野蛮国と陰口を叩かれていたことによるものらしい。これが交渉の妨げになると感じ、一気に改暦に走ったという事情である。主な交渉の相手であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどから要求されたそうだが、当時のロシアは西暦といってもローマ時代の遺物のユリウス暦であったのに偉そうに要求に加わったそうである。


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