Archive for June 2008

26 June

#418.明るい夜

夜は暗いものだが、真っ暗な夜というものは想像することすら難しくなっている。電灯のおかげで闇から解放されたのは結構なことだが、明るい夜が当たり前になってしまったようだ。明かりが十分でない時代は、夕食の後は寝るしかなかっただろう。ところが明かりは寝るだけの夜から、そうでない夜をつくりあげたようだ。

室町時代に荏胡麻などを原料とする灯油が広まり、夕食後という自由な時間が発生した。これにより文化の担い手が広まったそうである。それ以前の文化の担い手は昼間から文化活動に専念できるお公家様や僧侶などに限られていた訳だが、それ以外の人たちが昼間の仕事の後、文化活動にも参加できるようになった。武士を始め、商人や農民までも参加するようになり、文化の担い手の広がりは文化の多様性をもたらすことになった。武士の好みと思われる水墨画、町衆の芸事と思われる茶道、田楽・猿楽は農民の芸能だ。

このような植物由来の灯油は仄かな明かりで、真っ暗闇から人間を解放し安らぎを与えることから、人はもてる時間を文化活動に費やすことになった。ところが近代の電灯の明かりは、明るいが優しさがなく、ただ夜を無くしただけの昼間の延長を作っただけのようだ。文明的な光は生産活動に空しく消費されてしまうが、文化的な光を取り戻すことにも力を注ぎたいものである。


10:57:32 | datesui | No comments |

25 June

#417.歳をとって

歴史の本を読むと、1970年ごろから現代ということらしい。それより前は現代ではなく、正真正銘の歴史の中ということになる。お蔭さまで長生きをさせていただくと、実際に生きてきたことが歴史になっていて、なんとなく恥ずかしい気持ちになることがある。

例えば、キューバ危機などは実際に新聞で読んだりしたが、当時の中学校では先生がこんな事件が起きていると簡単な説明をしてくれてもいた。ところが、今もう一度思い返すと、第3次世界大戦の心配もあったという実に恐ろしいことだった訳だが、緊急体制などは別にとりもしなかった。マスコミも騒がなかったようだが、当時の自分には巨人が勝った負けたことより価値の低い話だった。
さすがに、サンフランシスコ平和条約や朝鮮戦争には体感がないが、ベトナム戦争や中国の文化大革命は生意気な意見を述べていたように思える。だが、今、体感したと言える歴史上のことは、唯一、高度成長ぐらいだろうか。テレビを見ることができるようになったからだろうか。

こうして今起きていることを考えると、実に無責任に生きているように思えてならない。漫然と歴史をやり過ごしてしまうのではなく、少なくとも自分の目の前で起きたことは、後世に伝える責任があるとして生きなきゃならないだろう。


23:49:14 | datesui | No comments |

18 June

#414.大きな単位

将棋の羽生善治が名人位を奪取し、十九世名人の資格を得たそうだ。中学生のころから末は名人と言われ、確かに名人位を始め7つのタイトル戦を完全制覇してきた。最後に残ってしまったのが永世名人という最高峰で、名人位を5期取れば永世名人、つまり十九世名人になれるのだが、羽生にも足踏みがあった。

この将棋の永世名人と言うのは、江戸時代初めの初代名人大橋宗桂から始まるもので、昭和の初めの13代の関根金次郎まで世襲制で継がれてきた。これを昭和12年の1937年から実力名人制に変わり、将棋史の残る死闘の結果、十四世名人として木村義雄が就いた。以後、大山康晴十五世、中原誠十六世、谷川浩司十七世と続き、十八世は羽生の時間の問題と思われていたが、小学生のころからのライバル森内俊之に先を越されてしまっていたのである。

羽生の強さは今更このような場所で申し上げることもないが、一言で言えば大きく先を見ることだと思う。10手先にはこの戦闘の中心はこちらに向きそうだとか、20手先にはどこで戦闘が起きそうだというようなことだ。また一方で、普段の研究はITの技術も巧みに使いこなしながら10手単位で先を見通す力をつけるようなトレーニングを積んでいるようにも思える。精緻な読みの積み重ねも当然あるだろうが、大きな単位で先を見通す力は羽生の将棋に限らずいつでもどこでも考えておきたいことと考える。

00:50:53 | datesui | No comments |

15 June

#413.消費パワー

今は大衆消費社会という世の中で、みんなで何でもかんでも使ってなくしてしまうそうだ。石原慎太郎の『太陽の季節』はこの大衆消費社会を予言した作品で誉れ高いが、流石は石原知事、見事なご慧眼だ。ところが、その姿はどう見ても1980年代までのことで、バブル期のボデコンが想定できる範囲と思われる。

その後も大不況にかかわらず大衆消費社会は右肩上がりを続け、消費は減る気配を見せていない。モノが売れなくなったと言われているが、消費は拡大しているのだ。拡大の先は、モノではなく情報の消費に取って替わっていることによって達成している。ケータイによるサービスの拡張はこれからも増えるだろうが、有料のサービスは財布のキャパに決まってしまうだろうが、無料のサービスによる情報消費が夥しく増えることは今の状態からの容易に推測できるだろう。

その状態が「事件の消費」だ。次から次へと大事件が発生するのも困りものだが、その事件を片っぱしから消費してしまうのが今の大衆消費社会なのだ。中国の四川大地震で大報道がされる中、江東区の女性殺害遺棄事件の容疑者が逮捕されるとニュースは江東区のマンションに殺到し、今度は秋葉原で無差別殺人が起きれば中国の地震も江東区の殺人事件もほとんど扱われなくなる。そして、14日の土曜日、東北地方で大地震が発生した。死者も出ていて人的損害に加えて、物的損害も大きそうだ。

こうなると、秋葉原の無差別殺人事件、江東区の女性殺害事件、中国の地震、さらにミャンマーのサイクロン被害、などなど事実を見据えて、次への糧のようなものの蓄積など遠い話になってしまっている。表層的なところをすくって、五感の入口を通り過ぎるだけの情報に加工して、それこそ消費だけで終れる情報だけが飛びかっている。情報が氾濫しているから、そうでもしなければ仕方ないのかも知れないが、もう少し蓄積も考えた情報加工はないものだろうか。


23:59:26 | datesui | No comments |