Archive for May 2009

20 May

#560.隅田川七福神巡り? −補遺・梅若伝説下−

梅若伝説の続きを、謡曲『隅田川』で辿ろう。梅若丸の母、妙亀というのだが、妙亀は近づけば逃げてしまう梅若丸の亡霊を追い続けることになる。だが、わが子の霊は白みゆく明けの空とともに立ち消えていく。
「東雲(しののめ)の空もほのぼのと明けぬれば、跡絶えてわが子と見えし塚の上の、草茫々として、ただ、しるしばかりの浅茅ヶ原となるこそあわれなりけり」と、夜が明ければ塚の上は野草がはびこり、浅茅ヶ原が広がっているだけで、実に胸打つことだ。
能では狂女の姿をしたシテ役が呆然と立ち尽くすところが最大の見せ場になる。狂女の姿で立ち尽くす、これがすべてを表す象徴美で、能の真髄だ。ところが、能の『隅田川』を最初に観たときは、クライマックスに掛る前のところで不覚にも眠ってしまい、ハッと気がついたらシテ役が呆然と立ち尽くしているところだった。
さて、『隅田川』では呆然と立ち尽くして終るが、梅若伝説での妙亀はこのあと浅茅ヶ原にある鏡ヶ池に身を投げてしまう。これも里人たちにより手厚く葬られ、塚を立てて後世に語り伝えたという。

そこで、今度は妙亀の塚、妙亀塚へのお参りとなる。妙亀塚は梅若塚からかなり離れたところにある。隅田川の対岸、白髭橋を渡った先だ。ちょうど白髭橋を中心にして梅若塚の点対称の位置にある。美しさと力強さのバランスが絶妙の変形アーチの白髭橋を渡り、2つ目の信号を左折してバス通りに入る。そこから300mほど南に進んだところに妙亀塚がある。この界隈はその昔山谷と呼ばれたあたりの近くだが、当然なことながら面影はない。路地の突き当りに妙亀塚があるが、思いのほか立派だった。妙亀塚を見に来る人は少ないようで、見物客などはいない。だが、妙亀塚の境内の中で昼間から酒を飲んで赤い顔をしている人が3人ほどいて、山谷の面影は健在かと思わせた。

梅若塚と妙亀塚は、直線距離で1km以上、歩くと20分もかかるほど離れている。いろいろな案内書を見ても、梅若塚と妙亀塚をセットで案内してことは少ない。しかも梅若塚は墨田区で妙亀塚は台東区なので、区の観光案内パンフでも別々になりやすい。梅若伝説も梅若丸だけでは話にならないどころか、能の『隅田川』では狂女の妙亀が主役なのだ。少々面倒でもセットで案内して欲しいものだ。


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妙亀塚は妙亀塚公園という小さな公園になっている。そこで昼間から酒を呷っている御仁がいるわけだが、写真に入らないように撮影するのが少し面倒だった。右は白髭橋。男性的だが優美なフォルムが大好きだ。藤牧義夫の版画、『隅田川絵巻』に登場する白髭橋は精緻な線で描写され、この橋の魅力を最大限に引き出したものだろう。残念なことに、藤牧義夫は貧困と過労でノイローゼになり24歳で失踪し、そのまま亡くなったと思われる。


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19 May

#559.隅田川七福神巡り? −補遺・梅若伝説上−

その東白髭公園の北の一角には水神大橋へ通じる道路が公園の下を通っている。言うなれば幅広の陸橋だが、梅若橋という粋な名前がついている。梅若の名は橋だけではなく、東白髭公園の東側には梅若小学校がある。梅若という名はこの辺りでは特別なことらしい。

梅若は能の『隅田川』の登場人物だ。京都白川の吉田少将惟房の一子、梅若丸をさす。梅若丸は信夫の藤太という人買い商人にかどわかされ、都から遠く離れた奥州へ連れて行かれる途中に病気になり、隅田川に来たころには動けなくなってしまう。人買い商人は梅若丸を置き去りにして行ってしまう。哀れに思った里人が梅若丸を手厚く看病するが、甲斐なく次の辞世の一首を残して僅か12歳の短い一生を閉じる。
  「たずねきて問わば答えよ都鳥すみだの河原の露と消えぬと」
不憫に思った里人は梅若丸の塚を築き、精一杯の供養をする。

一方、母親は狂気となってわが子を探し求め、訪ね訪ね東国まで来て隅田川に至る。渡しの船頭は母親を単なる気違いとして相手にしなかったが、業平の歌の由来などを語るので、態度を改め母親を舟に乗せた。
舟が川の中ほどに差し掛かると対岸から念仏供養の声が聞こえてくる。母親が船頭に声の訳を尋ねると、船頭は梅若丸についての一件を話す。母親はその供養の主が探し訪ねてきた梅若丸であることを知り、さらにその供養が梅若丸の一周忌でもあったのだ。
船頭に梅若丸の塚に案内され、わが子の塚に念仏を泣きながら唱えると、梅若丸の亡霊が現れる。お互いに、母よ、子よ、と呼び合うも、抱こうとすればふわりと逃げ、姿や形は捉えられないまま夜が明け亡霊は消えていくのである。


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梅若塚。東白髭神社にある木母寺の境内にある。右は木母寺。木母寺の由来は、梅の字を木と母に分解したものだ。この界隈は防災拠点に指定されているため、歴史的文化史跡であっても木造の建造物が許可されない。だから、なんとなく殺風景だ。


16:58:01 | datesui | No comments |

13 May

#556.隅田川七福神巡り? −補遺・東京防災拠点−

東白髭公園一帯は東京防災拠点でもある。前回でも述べたとおり、この地域は水害に悩まされていたが、それ以上に被害甚大だったのが火災だ。特に震災と戦災では、実に多くの人々が死にあるいは傷つき、汗の結晶のわずかな財産も灰燼に帰した。そして歴史を辿れば、いくつかの大江戸の大火をも思い出さずにはいられないだろう。

そこで、まず橋が架けられた。水神大橋と千住汐入大橋だ。隅田川には橋がたくさん架けられていて、山手線ゲームのお題にも相応しいほどだが、白髭橋から千住大橋の間にはつい最近まで橋はなかった。1989年歩行者用として水神大橋が架けられ、1996年には自動車も通れる大きな橋に架け代えられた。次いで2006年、その上流に千住汐入大橋が架けられた。名前の由来は、元々「水神の渡し」、「汐入の渡し」あったからであるが、水神大橋は隅田川神社に由来する「水神宮」の意味合いも強い。こうして避難路や救援・補給路ができた訳だ。

その次は、隅田川の両側に広がる緩衝地帯だ。東白髭公園の対岸には都立汐入公園がある。災害時の避難場所にもなる。江戸時代、明暦の大火後に江戸市中に造られた火除地(ひよけち)に相当するものだろう。これに加え、さらに大きな防壁が設けられた。それが墨堤通り沿いに連なった13階建ての高層集合住宅群だ。この集合住宅は防火設備に優れ、墨田区が提唱している「逃げなくても安全な街」をめざしたものになっているそうだ。という訳で安全は結構だが、この公園内は新たな木造の建築物は許可されないそうだ。歴史的興味のつきない街だが、新たな史跡の復刻などがコンクリートになってしまうのかと思うと複雑な気持ちだ。

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左は水神大橋。東京はどこも道路が混んでいるので、避難・救援用の道路でも普段は幹線道路だ。右は東白髭公園の様子。纏は防災のシンボルだ。後方の防壁となる高層集合住宅は、1キロ半にもわたって連なっている。


16:55:59 | datesui | No comments |

12 May

#555.隅田川七福神巡り? −補遺・水神宮−

隅田川七福神は南北に長く広がっていて歩くにも相当な距離になる。その祠の間隔も一様ではなく、多聞寺→→白髭神社・向島百花園→→長命寺・弘福寺→三囲神社、といように長く歩かなければならない区間がある。そこへ救いの神か、特に1.5kmもあろうか多聞寺→→白髭神社間には東白髭公園が隅田川沿いに広がっていて程よい散策ができる。

墨田区や江東区は隅田川と荒川に囲まれ、水害に悩まされてきた。だが、隅田川の水運は隅田の住人にそれ以上の恩恵をもたらせた。という訳で、良くも悪くも隅田川の水神様にはお願い事が多いのだ。
東白髭公園の北寄りに墨田区と荒川区をつなぐ歩行者用の橋が架けられた。橋の名前は、隅田川のキーワードに相応しく「水神大橋」。その後、この橋は車も通れる立派な水色のアーチ橋に架け替えられた。その水神大橋から東白髭公園内を南に下ると隅田川神社に行き着く。水神宮とも呼ばれ、隅田川のお願い事を一手に引き受ける神社だ。特に、船頭や船宿、船荷仲間など川で働く人たちに広く厚い信仰がされているという。由緒は源頼朝が関東に下向したとき大暴風雨に遭い、ここにお祈りをして祠を建てたというらしいが、始めは浮島神社といったそうだ。古くから「水神さん」として親しまれてきたが、明治の初めに現在の名前に改名されたそうだ。
大神社ではないがそこそこのお社で、さすがに水神様だけに狛犬のかわりに、亀が置かれている。さしずめ「狛亀」とでも言うのだろうか。


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左は隅田川神社の本殿。瀟洒な神社だ。右下には狛犬に相当する部分が少しだけ映っているが、狛犬ではない。本文でも紹介したとおり、その「狛亀」だ。


実は手術で入院をしたため、少し休みました。このブログから本格的な再開のつもりです。カッコ悪い手術だったので、公言を避けてしまいました。鼠径ヘルニア、平たく言えば「脱腸」だったのです。2年半前に心臓の手術をして、リハビリのため歩け歩けの毎日を実践してきました。それが昂じてヘルニアになってしまったというオソマツです。心臓の手術も弁の機械的損傷によるものですから、ヘルニアのことを考えると、体の構成素材の強度不足がすべての原因のようです。今さら、どうにもなりませんが、残り少ない人生ですので、うまくつき合っていくつもりです。


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