24 November

#491.京都へ行ってきました? −洛南・伏見稲荷−

洛南は探訪の機会が薄かった。2001年前から始めた京都探訪でも、京都駅より南は東寺、東福寺、泉涌寺ぐらいしか行っていない。いわゆる洛南には足を踏み入れていないのだ。とい言う訳で今回の洛南巡りはついでや折角という感じで、探訪先がどんどん膨れ上がった。
この伏見稲荷もそのひとつだ。行きたい理由は有名で参拝者多いからだ。何でも新年の初詣の参拝客数が殊のほか多いとのとこらしい。警察庁発表の2006年の初詣の参拝者数は、?明治神宮、?成田山、?川崎大師の順で、いずれも関東の寺社だが4位には伏見稲荷が入っているのだ。以下、?名古屋の熱田神宮、?大阪の住吉大社、?浅草寺、?鶴岡八幡宮、?太宰府天満宮、?氷川神社ということらしい。伏見稲荷は270万人を集めて関東以外では堂々のトップなのだ。また、初詣にはご利益がつきもので、厄除け、縁結び、家内安全など様々だが、伏見稲荷は商売繁盛、いかにもご利益に相応しいコンセプトが明快でわかりやすい。という訳で妙に魅力を感じていたのである。

洛南めぐりの最後になったが、どうしても行かねばと本命の宇治の散策でさえ少しだが省略をしての辿り着きだった。最寄りの駅に着くと駅からの参道は活気が違う。さすがは集客力のある神社で、駅からの道しるべもいらない。お店の並びの活気がそのまま神社に向かっているのだ。

鳥居、本殿、さすがに立派だ。お賽銭をあげて、早速本殿の裏に回って千本鳥居への挑戦だ。ところがここで大失態。デジカメのバッテリーが切れてしまった。昨日、充電しておいたのだが、石清水八幡宮の鬱蒼としたところでの撮影でフラッシュを乱写したためか、それとも連写につぐ連写のためか、理由はどうでもいいのだがデジカメが使えない。お目当ての千本鳥居は写せなかった。

その千本鳥居の続くこと続くこと、参道を登っては終りかと思えども、またまた鳥居は続くのである。2、30分ほど歩いただろうか、茶店の人にどこまで続くのか聞いてみたところ、これで3分の1だそうだ。これに急に戦意がなくなり、踵を返すことにした。空も薄暗くなってきて気持ちも悪くなるので、一目散に下山をしたところ、行きの道とは違う雰囲気に気づいた。どうも、普通の人家の通りに出てしまったようだ。どこでどう間違えたか分からないが、お稲荷さんなのでキツネにつままれたようなことになった。途中で止めたバチでも当たったか、もう一度入り直して、お札をいただいて帰ることにした。

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駅から降りて、この賑わいを辿っていけば伏見稲荷に着く。許波多神社とは大違いだ。右は秀吉の造営とされる楼門。秀吉の母の病が治れば一万石奉加するいう「命乞いの願文」が伝わっているそうだ。一万石奉納するから治してくれではなく、治ったらいくらというところが秀吉らしい。


15:34:23 | datesui | No comments |

19 November

#489.京都へ行ってきました? −洛中・続烏丸線沿線巡り−

円通寺から国際会館に戻り、また烏丸線に乗る。今出川で降りて相国寺へ行く。今出川通りの狭い歩道が歩けない。授業が終わった同志社の女子中学の生徒で溢れているのだ。相国寺は水上勉の『雁の寺』で有名だが、当然それだけではない。萬年山相国丞天禅寺と言い京都五山第二位の名刹で、境外塔頭には金閣や銀閣がある。創始者である開基は足利義満、初代の住職をさす開山は名僧無窓疎石で、当時の聖俗を代表する二人によって建てられたことになる。五山文化の中心でもあり、画僧の周文や雪舟は相国寺のである。

客寄せ的な法堂の鳴き竜をまずは見て、期待の方丈の庭を見た。無窓疎石の作だが思いの外ゴチャついたイメージで、フォーカスが定まらず不完全燃焼という印象だ。庭とは逆の「琴棋書画の間」の原在中の筆になる襖絵は一見の価値があった。当時の教養を示す4つの事柄を描いたものだが、単なる風景ではなく、家の造りや服飾など風俗の一端が垣間見え、楽しい内容だった。

この相国寺の本命は浴室だ。1400年ごろの創建とのことで、湯を沸かす釜と湯を使う湯船は別室だ。湯は釜のある部屋から樋を通って湯船に注がれる。釜は2基ある。片方の釜から湯を供給している間に、もう一方で水から湯を沸かすということだろう。釜と湯船が一体となった風呂桶が開発されるのは相当後のことらしい。

午後から、六角堂、円通寺、相国寺と廻って来たので、かなり時間も経っている。雨のせいもあってあたりは薄暗くなってきた。相国寺から予定の廬山寺へは歩くしかないので、同志社大学の中を抜け今出川通りを東進して廬山寺へ向かった。かなり急いで歩いたつもりであったが、残念ながら廬山寺は間に合わず閉店であった。源氏物語ミレニアムということもあり、紫式部が源氏物語をしたためたところである廬山寺を見ておきたかったのだが、次への楽しみになった。

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同志社大学のキャンパスを抜けたら、今や日本の英雄、朝原選手の栄誉を称えた横断幕が誇らしげに掛かっていた。いつまで掛けておくのだろうか。右は廬山寺の看板。この看板とミレニアムの相乗効果で参拝者は激増だろう。


22:25:13 | datesui | No comments |

18 November

#488.京都へ行ってきました? −洛中・烏丸線沿線巡り−

京都の初日の14日は生憎の雨。それもかなり濡れそうな雨だったので、予定の三尾の山巡りを急遽変更することにした。そこで最終日の予定、さっと新幹線に乗れるように洛中を軽く巡るコースに切り替えることにした。洛中は灯台下暗しさながらで、意外と見るべきものが残ってしまっている。特に気になっていたのは、六角堂と相国寺だ。あと思い浮かぶのは源氏物語ミレミアム関係の廬山寺だ。廬山寺はともかく、六角堂と相国寺は地下鉄烏丸線の沿線なので雨の中でもあり続けて巡るには好都合だ。

まずは六角堂だが、烏丸御池の駅からすぐそばで京都市内のど真ん中だ。六角堂はその名の通り、建物が六角形の形をしているが隣の高いビルにから見るとはっきり六角形がわかるそうだ。
聖徳太子の建立によること、華道の家元・池坊の発祥の地、親鸞が百日間参籠をして95日目の夜明けの夢の中で聖徳太子のお告げを得たということなどなど逸話の多いお寺でもある。境内に入って右へ進むと「へそ石」なるものが現れる。玉石に囲まれた六角形の石だが、旧本堂の礎石と伝えられているが、京都の中心を示すとされているので、「へそ石」と呼ばれるそうだ。
お寺に隣接して池坊会館の瀟洒なビルが建っている。表通りに回ってみると、ビルの壁面には華道の本山らしく見事なオブジェが飾られていた。

烏丸線に乗ってみて、雨なので円通寺はどうかと思った。そう思うと急に円通寺の雨に借景が見たくなった。終点の国際会館まで行けばバスもあるはずだ。国際会館に着くと、バスを待つのももどかしくタクシーで急ぐことにした。
やはり雨の円通寺は半端ではなかった。遠景の比叡山は墨絵のように浮かんだり消えたり、近景の苔は生き返ったように緑鮮やかに映えていた。円通寺は近隣の開発ラッシュで借景の維持が難しくなってきて、従来写真撮影禁止だったのが最近になって解禁になった。という訳で意地汚く撮りまくったが、雨の借景は素人が小さなデジカメで撮れるような代物ではなく、悪戦苦闘の姿を後水尾天皇はさぞかしせせら笑っていることだろう。
来訪者はなく、ご住職から肉声で説明していただけた。ここの石は海の石ですから雨に日は生き生きとしています。という説明を聞いても、まだ来訪の回数を重ねることが必要なようだ。寺の維持の難しさは開発だけではなく、昔の技術の維持がひっ迫しているそうだ。大工は勿論、左官や建具、特に後水尾天皇はお金を掛けずに知恵を使ったところがあるので大変とのことだった。ところで、ご住職の作務衣がオシャレに映ったので目を遣ると、大島紬だった。


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六角堂のへそ石。ここが京都の中心とされている。右は円通寺の借景の庭。薄く見えるの、いや見えない、のが比叡山。後水尾天皇は京中を歩いて比叡山の一番きれいに見えるこの地を定めたそうだ。


11:37:54 | datesui | No comments |

13 November

#486.京都へ行ってきました? −洛南・宇治拾遺−

宇治拾遺物語といえば芥川龍之介の『鼻』や『芋粥』のもとになった中世の説話集だが、ここでの拾遺は宇治や洛南の探訪で書き漏れたことを紹介させていただく。

まずは宇治川の中の島にある十三重石塔だ。高さ15m、なんでも日本で一番高い石塔だそうだ。五重塔などの木造の建造物は日本にたくさんあるので、一番はそれなりに意味のあることだが石塔はどうだろう。有名とされる石塔は聖徳太子が建てたといわれる滋賀県の石塔寺のものくらいで、大きなものや有名なものは少ないようだ。この石塔が建立されたのは、宇治川の洪水で橋が流されるのは川の魚霊によるものということからの魚への慰霊碑だそうだ。石塔の下には釣り具や漁網などの漁具が埋め、殺生禁断の意味が込められているとのことだ。塔にまつわる伝承の凡庸さに加えて造形的にも美しくなく、何となく時間の無駄づかいにもなりかねない塔だ。だが、妙に目立つところがあって、ついこのようなことになってしまった。やはり、高さだけでも日本一は惹きつけるものがあるのかもしれない。

次は飛行神社だ。八幡市の石清水八幡宮の麓にあるが、外社ではない。大正4年というから1915年に日本で最初に模型飛行機を飛ばした二宮忠八によって建てられたそうだ。航空関係の犠牲者の慰霊をはじめ、航空安全と航空事業の発展を祈願したことによる。二宮忠八はライト兄弟に先立つこと5年前にゴム動力の模型飛行機を完成させた人物で、日本航空界の孤高のさきがけだ。現在の御社は平成元年に新築されたもので、航空に相応しく近代的な作りになっている。境内にはゼロ戦のエンジンも置いてあったが、個人的な趣味からは入口の左側のガラスケースに入った79Jジェットエンジンだ。F104Jを知っているお方にとっては航空自衛隊の懐かしの名戦闘機だが、そのエンジンだ。ガスタービンを専攻していた学生時代、IHIの三鷹工場でその部品を観た。精密というより、意外な簡素感が忘れられない。


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十三重石塔。高さ15mは日本一。木造の五重塔でも日本一の東寺の塔は55mだ。レベルの低い日本一なのだが、妙に目立つのだ。右は航空神社。お札は700円。普通の神職の恰好をした方が対応してくれた。


22:42:03 | datesui | No comments |

10 November

#485.京都へ行ってきました? −洛南・マニアックな神社−

個性的というか妙な神社を2社ほど参拝してきた。ひとつは許波多神社(こはたじんじゃ)で、京阪電車で六地蔵から宇治に向かって1つ先の木幡駅のそばにある。神事としての競ひ馬が行われた神社だが、最も古い記録が伝えられているとのことだ。つまり日本で最初に競馬が執り行われたところだ。競馬ファンとしては見過ごすわけにはいかない。少々の困難は乗り越えてと思い、石清水八幡宮から宇治へ向かう京阪電車の木幡駅で下車してみた。駅からはそう遠くないが、許波多神社へ向かう人など一人もいないので歩きにくかったがどうやら到着できた。思ったより立派な神社だが、静かだがもの淋しい感じだ。

京都競馬場では許波多特別というレースがある。日本の競馬発祥の地を記念したわけだが、JRAのホームページには「許波多」の説明がある。許波多は、京都府宇治市にある地名「木幡」の元となったもの。許波多神社が有名。皇位継承をめぐる壬申の乱(672年)の折、大海人皇子(後の天武天皇)が戦勝を祈願したといわれている。また、競馬発祥の神社としても知られ、古代から祭礼行事として東西二町(220m)の馬道で競馬が行われていた。
ということだが、東西二町(220m)の馬道で競馬が行われていたということだが、その面影はどこにもない。人影どころか神社の人もいないので、お札もいただくことができない。仕方なく日本の競馬発祥の地を目の当たりにしたという満足感だけで引き上げることにした。


競馬の神社といえば、藤森神社(ふじのもりじんじゃ)の方が有名なようだ。こちらは元々学業の神様だったようだが、合格祈願から派生して、勝運や安産、さらには交通安全に発展して大いに繁盛している様子だ。特に勝運の神様ということで競馬関係者のお参りが多いとのことだ。こちらも京都競馬場に藤森特別というレースがあるが、許波多特別より格は下のようだ。許波多特別は毎年執り行われるが、藤森特別はレースのない年もあって、微妙な差がある。ただ、JRAのホームページには藤森特別の説明はあった。藤森は、京都市伏見区にある神社。本殿は、室町時代の一間社流造りで重要文化財に指定されている。5月5日の藤森祭では、勇ましい武者行列が町内を巡り、表参道では神事である駈馬(かけうま)が行われる。

ということで、許波多神社とは違い馬の行事を執り行っているのは素晴らしいことだ。商売繁盛も十分頷ける。
宇治から伏見稲荷へ行く途中、伏見稲荷の3つ手前の墨染で降りて立ち寄ってみた。許波多神社よりは賑やかな街並みを歩くと、目立つ看板が立っている。「勝運、馬の社、藤森神社」という高さ4mもあろうというシロモノだ。少々恥ずかしい気持ちで参道を入ると、いかにも繁盛している神社の雰囲気が漂っている。軽く参拝をしてお札をいただく訳だが、ここはお札の種類も凄いのだ。ホームページにはお札、絵馬、お守りの類が44種類も載っていた。社務所で見ると、それは見事なもので目移りして困った。適当な値段のお札をいただいたが、神官の方がお札にすぐさま一年後の年月日を記入して、焼納期限と称して商魂の逞しさを発揮していた。


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許波多神社の境内。ひっそりとして、なかなかの雰囲気だが、神社の人もいないのでお札も買えない。右はその入口だが、嗚呼、競馬の聖地をママチャリが何事もないように通り抜けていく。

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藤森神社の大看板。気恥ずかしい気持で参道を歩くと、いかにも商売繁盛の匂いがする。


22:32:00 | datesui | 13 comments |